第六十九話 何もしなければ、何も無い

虎穴にいらずんば、虎児を得ず。という諺がありますが、まさしく其の通りで、何か向こうからやってくるのを待っているだけでは何も無い。ヨットを遊びたかったら、何か行動を開始しなければなりません。考えてるだけでは、何も起こらない。

ヨットというおもちゃは、楽器のような物で、ちょっと弾けるようになると、それなりに楽しむ事はできます。でも、それなりです。子供ならいざ知らず、大の大人ですから、それこそ簡単な曲では満足できなくなります。つまり、うまくなれば、もっとも複雑な曲も弾けるようになる。それと同じで、ヨットも
初歩でもそれなりに楽しむ事はできますが、うまくなればなる程、楽しめる範囲は広く、深くなっていきます。ですから、楽器しようと思う人は一生懸命勉強し、練習し、うまくなろうとしますね。当たり前の事です。それで、そのうち、誰かに聴かせるわけです。うまくいけば、ご満悦、そうでなくとも、また今度こそは、と思う。

ヨットだって同じです。ヨット始めたら練習するもんです。うまくなりたいと思うのが普通だと思います。その方が面白いんです。楽器はプロになるわけじゃないけど、みんな一生懸命ですね。それも楽しんでやってます。何故か、ヨットはプロになるわけじゃないと、練習はしません。学びもしない。これは何故なんでしょうか?楽器もヨットも、練習が必要な道具であり、それに応じて、自分が進化していくものだと思うんですが。うまくなっていく過程も面白いと思います。

練習と言いますと、どんなイメージでしょうか?楽器を練習する場合、基礎をきっちりやる。その基礎というのはたいていは面白く無いんです。早く、曲を練習したくなります。ですから、単に基礎となる音符を練習していくのは、退屈ですから、それが為に難しいものになっていきます。でも、ヨットはどうかと考えますと、基礎的な事も面白い。練習自体が遊びであり、そこから一段一段上っていくのですから、全てが遊びながら練習できて、その練習が遊びで、それで上達できていく。セーリングして、意識をセーリングにおいておくだけで練習になる。それが遊びです。ヨットは遊びも練習も学びもみんなひとつ。全部が遊びです。

これがある程度乗れるようになると、セーリングから意識が離れていきます。離れるとどうなるか、セーリングに対する学びは無くなり、セーリングから得られる上達する充実感は無くなり、セーリングから得られるフィーリングや感動も無くなります。つまり、遊びの殆どを失うわけです。それで、他の遊びを加えないと面白くありませんから、友人を誘う、島に上陸する、遠くへ行きたくなる。そういう事に意識が振り向けられます。もはやクルージング派はセーリングはしてもピクニック気分ですから、セーリング以外の事が気になります。

そうしますと、キャビンの広さが気になる。冷蔵庫がほしくなる。温水がほしくなる。全部セーリング以外の事です。それでヨットに関連しながら、セーリング以外と言いますと、物はお金さえ出せば調達できます。でも、それを調達したら、今度は仲間と場所とになります。それらは、いろんな事情によって思う時に調達できないかもしれません。つまり、それらは他力なのです。他に頼れば頼るほど、自分の思いはそれに合わせて曲げなければなりません。ですから、思う時に出せなくなります。

頼る物が少なければ少ないほど、その分、自分の自由が確保されます。ヨットは自由の象徴のような物で、できるだけ自由を確保しておいた方が良い。それはいつでも、自分の好きな時に、好きなやり方で遊ぶ事ができる。そういう事だと思います。もちろん天候には逆らえませんが、これは神の領域ですから、仕方ない事です。人間にはコントロールできない。でも、うまくなればなる程、初心者だった頃に避けた風域を、今度は楽しめるようになる。少しづつ範囲を広げる事はできます。自由を制限するものは、天候のみなら、その分自由度は高くなるので、後は自分とヨット次第で、いつでも遊ぶ事ができる。

そうするかしないかはオーナー次第です。いろんなセーリングの中で、最も自由なのは、シングルであり、デイセーリングだと思います。ヨットはどれだけ自由に遊べるかではないかと思います。
どれだけ自由を確保できるか。それは、何もしなければ、何も無い。何もしない自由もありますが。

とにかく、ヨットはセーリングこそが最高のエッセンスです。そのエッセンスをいつでも、そしていつまでも楽しめるようにしておく事は、ヨットを遊ぶ最高の自由であり、それをしなければ、感じること
も何も無い。やればやるだけ良い事も悪い事もある。でも、やらなければ、何も無い。悪い事も無いかわりに、良い事も無い。ヨットで無くても、何かを本気でしようとすると、同じ事ではないかと思います。

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