第九十話 クルージング VS セーリング

ヨットにお使い方を大きく大別するなら、ひとつは旅としてのロングクルージング、それとセーリングになると思います。前者はエンジン主体で、それこそクルージング、うろうろと回り、旅を楽しむ。行き先の地域を楽しむ。ヨットはその手段となる。セーリングは、どこかをうろうろ回るというよりも、セーリングそのものを楽しむ。この二つしかない。

ただ、この両者に共通するものがあります。それはどちらも、冒険を求めているという事です。冒険の大小は別にして、冒険が無かったら、どちらも面白く無くなります。旅における冒険は行き先の変化です。もし、同じ場所ばかりなら、冒険性はぐんと薄れ、面白さは無くなります。ですから、みんな、違う所に行きたくなります。セーリングにおいては、風が吹かなくなった時、ジェネカーを上げないダウンウィンドになった時、冒険は薄れ、途端に退屈になる。何をするにしても、冒険が無ければ、男は退屈になってしまう。

どちらの乗り方をするかは、自由ですが、この冒険性をいつも携えないと、退屈感が増してきて、面白さも無くなる。旅は行き先をどんどん変える事になります。或いは、同じ場所でも、その場所での何かが起こるかかです。セーリングは風の変化による、セーリングの変化、セーリングを楽しもうと思うと、ダウンウィンドも何とかしなければならない。あるオーナーはジェネカーを携えて、その走りをいつも待ち構えている。微風の時は、あえておとしてジェネカーで走る。そうするとセールエリアはでかいですから、結構面白いセーリングができる。こういう演出も必要です。

ヨットを遊ぶには、この冒険の演出をどうするかにかかっています。テレビゲームでバーチャルな冒険はできますが、あくまで自分は絶対安全圏内に居るので、まあ、現実の冒険に比べればたいした事は無い。現実では自分が絶対安全圏内に居ては冒険はできません。そう思うと、現実は冒険だらけ、仕事も遊びも冒険だらけ、希望したくない冒険もありますが。それで、家というのは、安らぎの場所ですから、ここに冒険は必要無い。安らぎの場所は家だけで良いのです。それで家の中が冒険になってくると、どこか別な場所に安らぎを求めたくなる。どこか1箇所は安らぐ場所がほしくなる。

海外ではヨットに住む人が多い。これは冒険では無く。ただの住居に過ぎない。別荘にしても安らぎを求めてでは無く、一種の冒険を求めて手に入れたくなる。でも、別荘もあまり安定すると面白く無い。それで、別荘には行かなくなる。ヨットでも同じじゃないでしょうか。宴会も楽しいけど、冒険じゃない。ピクニックセーリングばかりでは冒険にならない。近場の同じ場所ばかりの旅では冒険にならない。ヨットを楽しむには、どんなやり方であっても、一種の冒険が含まれていないと、男は面白く無いんです。

ゴルフをするにしても、これは一種の冒険です。スコアーを良くする。それが冒険になる。テニスも同じ、ボーリングも同じ、映画はバーチャルな冒険ですね。バーチャルですが、毎回毎回ストーリーが違う、展開が違うので、何度でも見れる。それでも、同じようなアクションものばかりだと飽きてくる。

セーリングで冒険する。又は、旅として冒険する。結局はこのふたつしかないのでは無いでしょうか。冒険が無くなった時、ヨットは退屈になってしまう。冒険こそが人生です。その冒険の隙間を埋める為に安らぎも必要です。その為に家がある。その為にキャビンがある。その比率をどうするかで、ヨットが決まる。仮にキャビンが無いにしても、コクピットは安らぎにもなるし、家に帰ればそこが安らぎでもある。

つまり、デイセーリング中心のセーリングはそれほど安らぎを必要としない。旅としてのヨットには、
ロングであればある程、安らぎの場がほしくなる。何人寝れるかの問題じゃない。安らぎとしての空間です。ですから、落ち着ける場所でなければならないし、信頼できるヨットでなければならない。それでも、沿岸であるかぎり、いつでも陸に上がれるという救いはある。外洋となると否応なしに、キャビンは絶対安らぎの空間であってほしい。ですからもっと信頼できる空間でなければ、人は不安でしょうがない。

旅の究極は、それこそロングクルージング、それも外洋クルージングになる。セーリングの究極は
シングルハンドになる。つまり、旅を求めるか、セーリングを求めるか、その両方にしても、その比率はどうか、それに応じて、冒険性をどう演出していくか。安定ばかりを求めていくと、結局は退屈な乗り物として終わる。自分なりの冒険を考えて頂きたいですね。そして、自分のレベルに応じて、
どんどん先へ進む。そうしますと、永遠に飽きる事の無い、充実したヨットライフを味わう事ができると思います。

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