第五十一話 外と内

考えてみますと、ヨットを遊ぶというのはいろいろありますが、行為は外にあり、それを感じるのが内側にあります。沿岸を走り、どこかに行く旅は外にあり、デイセーリングでシートを引いたりする行為は外にあります。そして、それによって感じる心は内にある。

遊びは内側の心をいかに楽しませてやるかにかかっています。どんな行為であれ、心が楽しさを感じるかどうかが重要になります。遠くに旅をすると楽しさを感じる事ができるだろうと期待して行くわけです。

いかんせん、日本人は忙しすぎます。それに遊びに対する意識が完璧にオープンでは無い。これは残念な事では無く、ただ、そういう事実、国民性があるという事です。遊びの中にも、何か充実感のような物を望みます。ましてや、何年も続けるようなヨットなんかは特にそうでしょう。時に、欧米人の遊び方を見てますと、一体何が面白いのかと思う事があります。特に何もしていない。それは休暇の長さだけの問題では無いと思います。

日本人は何をするにしても、充実感のような物を得た時にこそ面白さを感じるのではないかと思います。充実感を感じるなら仕事でも、遊びでも良いのだろうと思います。ですから、ただ漫然とセーリングをするという時の過ごし方には、あまり充実感は無く、何か他に面白い事は無いかと探す。
欧米人はそういう遊び方でも良しとしているのではないかと思います。そこが日本人は勤勉であると言われる所以かもしれません。

我々日本人は、日本人らしく遊べばそれで良い。何も欧米人の真似をする必要は無い。日本人はもっと内的な部分を重要視する国民で、茶道とか華道、書道とか、行為を通して内的な充実感を求める国民ですから、それならそういう日本人らしい遊びをしたら良いと思います。セーリングを通して内的な遊びをする。それはセーリング道というと大袈裟でしょうが、行為を通して感じる感性を重視する乗り方を楽しむ。

間違っているかもしれませんが、欧米人は何かの操作をして1ノットスピードを上げるという行為は1ノットという結果が出無いと意味は無い。でも、日本人は1ノット出なくても、その行為によって得られた感覚を楽しむ事ができるような気がします。結果がどうでも良いという事ではありませんが、
表面に出た結果が全ての社会では1ノットが重要ですが、内的な部分ではまた別でもあります。
茶道には何も達成する事はありませんが、何かがあるから延々と続いているのでしょう。多分、欧米人にはなかなか理解しがたいのではないかと思います。

セーリングを楽しむにおいて、スムースさを求め、スピードを求め、その為に知識をフル稼働させて、いろんな行為を試す。結果重視であるなら、何ノットスピードが出たか、タッキングがどれだけスムースだったかとかになりますが、求めるはそれでも、内的にいかに充実していたかが、日本人の遊びの重要なところで、各人の感性にどれだけ響いたか、そこが重要でしょう。でも、それを求めるには外的な行為、ひたすら求める行為を通してで無いと得られない。

デイセーリングという行為は日本人にぴったりな乗り方だと思います。繊細な日本人には、日本人の乗り方があります。ただ走り回るだけでは満足できません。いかに走るか、そういう遊びにはデイセーリングが最も相応しいと思います。いかに走るかを通して、感性に響く何かを求める。それが充実感をもたらし、日本人の遊びの感性に響く。日本人が10年も20年も同じ行為を続けられる理由はここにある。内的な求めにあり、外的な求めだけでは続かないと思います。何言ってるか良くわかりませんね。

花瓶があると、そこに欧米人はたくさんの花をいける。でも、日本人は一輪の花をいける。絵画の世界において、日本では昔から風景画というのがあった。欧米で風景画が登場するのはずっと後です。日本人は欧米人とは異なる。もっと内的な部分を重視する国民ではないかと思います。ですから、日本人は表面的な行為だけでは、長く続けるには至らないと思う次第です。そういう日本人の感性を言葉では理解していません。何となく、みんなが感性を感性として解っている。そこが難しいところです。でも、良いんです。日本人はみんな解っている。

セーリングを堪能するには、セーリングに集中する事です。そうすれば日本人はみんな自然に内的な感性が刺激されます。そこがあって、はじめてヨットに充実感が湧き出て来ます。それさえあれば、後は、旅をしても、宴会しても、何しても楽しむ事ができます。トータルで遊ぶ事ができます。
日本人の遊びは本質的には欧米人とは少し違うのではないかと思います。ですから、セーリングをスポーツしようとお奨めしています。スポーツという感覚はただ、セーリングに集中しようという意識を持つ事です。やり方はそれぞれで良いと思います。それにはデイセーーリングはぴったりです。

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