第二十六話 物質主義

現代は豊富な物で囲まれています。物質中心ですから、物の考え方も物質的になります。このヨットのサイズは?いくら?装備は?これらは当然の検討テーマになります。速いか?遅いかというのも同じです。でも、これは当たり前の事で、物質を中心に生きている我々にとって、自然な考え方です。これらは、また便利さ、快適さという結果をもたらします。これも至極当然です。レースに出れば勝ち負けという結果をもたらす。これが我々の遊び方です。

ところで、温泉なんかにつかる時、思わず声が出てきます。そして、その瞬間に全てを忘れ、幸福感を味わう事ができます。そこには何の頭脳の介入は無い。湯船に浸かる時、右足から入ろうか、左足から入ろうかとは考えません。頭脳の介入が全く無いから、心だけで感じる事ができます。
それがあ〜と言う声の発生の瞬間です。それに温泉効能を考えたりした途端に、その幸福感は消えてしまう。頭脳は常に成功と失敗を考えます。損得を考えます。でも、心はそれを越えた所にある。

ヨットを最高に楽しむ方法は、無心でセーリングできる時ではないかと思います。ところが、これは簡単ではありません。動かす事に頭脳が必要になります。しかし、方法は無い事は無い。ある程度の操作に慣れる必要はありますが、操作に頭脳を使い、頭脳ゲームをします。こうしたら、こうなる。ああしたら、ああなる。いろんな理屈をこね、知識を動員して頭脳ゲームを楽しむ。その間には、間ができる。例えば、タック後、真っ直ぐ走る。ブローも入るでしょう。その時は慣れてくれば頭脳の介入無く操作ができる。簡単な事なら頭脳を働かせる事はありません。それは車の運転でも同じで、慣れれば、考えずともブレーキ踏んだりする反応と同じでしょう。そうしますと、頭脳の介入無く、神経は集中できます。感覚に集中しています。その時の風や波の状態によっては、最高のフィーリングを得る事ができる。

また、その時の気分にもよりますね。例えば、真っ赤な夕陽が出ている時など、雰囲気を盛り上げてくれます。人はほんのちょっとした事で集中する事ができます。ピリッと冷たい風が顔にあたる。それだけでもです。集中すればする程、わずかな変化を感じる事ができます。それが何とも言えない幸福感をもたらす。温泉に浸かる、あ〜っと一声出す瞬間と同じかもしれません。物質に重きは無く、感覚にこそ集中しています。感覚主義です。

そんな事はしょっちゅうはありません。時々です。それでも良いかと思います。音楽を鑑賞する時、ただ聴こえる音楽に集中しています。それ以外は何も無い。そして時折、メロディーやリズムや、何か琴線に触れる何かに出会った時、感動もする。それと同じでしょう。ここにも何の物質もありません。

良い音を奏でるには良い楽器と演奏者の腕が必要でしょう。良いセーリングするにも良いヨットと良い腕が必要です。でも、ヨットの場合は演奏とは違い、誰にでもチャンスがあります。風と波が同時に動きますから、偶然にもピッタリ来る事はよくある事です。その偶然を必然にするには、練習が必要です。でも、その練習の時でさえピタッと来る事があるのですから、それも遊びです。技術が目的では無く、手段として、ピタッと来る瞬間を数多く味わう為の手段として、乗って遊び、練習して遊び、全てが遊びになります。

美しいヨットも、技術も、全ては、この感覚を得る為にある。そしてこの感覚、受け入れる感覚に余裕と言いますか、幅ができると、グッドフィーリングと思える状況の幅も広がる。いろんな状況で、グッドフィーリングを得られるかもしれません。微風、軽風、中、強、波の高さ、気温、暑さ、寒さ、ブローが入った時、上り、下り、いろんな状況が複雑にある。ひょっとしたら、全ての中にグッドフィーリングがあるのかもしれません。感覚主義、ヨットは感覚主義が良いと思います。

他人より遅いかもしれません。でも、何とも言えない滑らかなセーリングができた時の感覚、ブローが入って、うまくさばいた時の感覚、最高の風に最高のトリミングができた時の感覚、それを操作する技術が頭脳の介入が少なければ少ない程、それだけでグッドフィーリングになるのかもしれません。本当はその時はグッドもバッドも考えない。考えるのは頭脳ですから。何も考えていない。
本当はグッドもバッドも無い。ただの感覚的セーリングを味わったのかもしれません。でも、それが良いんです。

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