第三十三話 数学と音楽

数学は頭を使う。数学者は全てを数学で表す事ができると言います。現代は頭脳優先の時代ですが、同時に音楽も重視されています。音楽は数学的音符の並びですが、そこから生まれる音楽は人の脳だけでは無く、心にも響き、人を興奮させたり、和ませたりもします。絵画も、陶芸も、あらゆる芸術は同じ作用をする。

数学なしでは現代は成り立たない。現代の発展、現代を支えるのは数学が大きな力を持っています。それで数学は重要と考えられます。しかし、生きるのは人間ですから、人間は数学的にのみ生きられるわけでは無い。そこで、我々の生活には芸術も必要とされる。頭脳と心、両方が人間には必要です。

芸術だけが心を癒すかというとそうでも無い。数学を解く事に喜びを感じたり、頭脳を使う事にも喜びを見出すのが人間です。セーリングは音楽にも似ている。音符は数学的だし、でもそこから出てくる音は芸術的です。セーリングは技術においては数学的ですが、そこから出てくる帆走は芸術的でもある。

セーリングの結果がレースだけなら、全ては数学的かもしれません。数学的に考え、その結果も数学的に勝ったか負けたかの勝敗になる。でも、勝負の世界では無いなら、結果は芸術的でもある。感性の世界になります。ですから、セーリングは全てを内抱しています。頭脳プレーとその結果は感性です。ですから、奥が深いと言われるし、気持ちも揺さぶる。

ヨット本体は数学で表す事ができる。長さ、幅、重量、セールエリア、コンピューターを使えば、どんな走りをするかも予測できる。しかしながら、走ってどんな感じがするかは数学では表す事はできない。そこが人間の介在する余地があるし、面白いところでもあります。人間の感性が介在するという事は正解は無いという事になります。あいまいであり、その日の気分も違うし、捉えどころも無い。ですから、その日の気分によって、操作をする。それも全部正解であります。

音楽も同じで、ドからオクターブ上のドまで12音、これの配列によって、無限の音楽を創る事ができます。その成り立ちによって、聴く人はいろんな感情を抱く。ヨットのセールと風と船体の関係とも良く似ています。つまり、セーリングは音楽のように、操船者が音楽を奏でるのと同じようなプロセスを通る。そういう芸術なのです。芸術だからこそ、人の心に響く。現代は数学優先の時代ですから、ヨットを数学的に乗るという事を考えますが、本当は芸術的にセーリングする事ができる。

残念ながら、音楽は多くの聴衆を相手に聴かせる事ができますが、セーリングはあくまでプライベート、自分だけの芸術です。誰にも、見せたり、聞かせたり、触らせたりする事ができない。テレビ中継があっても、感じは伝わらない。そこが残念なところですが、自分とクルーだけの芸術、何と贅沢なと考える事もできる。

その日、自分が最も良い気分になれるように、頭と体を使って、セーリングする。自分だけの為にですから、我侭なもんです。贅沢なもんです。でも、人の評価は気にしないで良いし、自分さえ気持ちよければ良い。勝つも負けるもそこには無い。そんな乗り方も悪く無いなあと思います。そして、いつも、その日のセーリングを、そのまま受け取る。ゆったりも、ハードもそのまま、良い悪いは別にして、そのままを味わってみたらどうでしょう?

人は良い気分を味わいたいと思います。でも、そんな事は忘れて、そのままを味わう、評価をしないでそのままを味わってみたらどうでしょうか?その時はいろんな感情が沸いてきますが、それでも良い悪いを考えない。ただ、いろんな感情を味わう。何か、違う平穏さがあるような気がします。

結局、何を言いたいかと申しますと、セーリングを、速いとか遅いとかだけで無く、もっと感じようという事です。速いか遅いか、どこに行けるか、そういう事ばかりでは無い。セーリングは心に響く芸術とする事ができる。ちょっとオーバーですが。突然の雨に見舞われたり、飛沫を浴びたり、ひやっとしたり、いろいろありますが、その中には、しびれるようなセーリングもある。いろいろあるので、いろいろ感じようという事です。良いか、悪いかだけで判断しないで、いろいろあるから、いろいろ感じる。今日はこうだった。今度こそではなく、今度はどうだろう?

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