第六十八話 物創り

多分、大抵の人は物創りが好きなのではないでしょうか。何かを造る。段々と形になっていくプロセスはわくわくしますし、もっとこうしたら、ああしたらと考えます。それが好きな事なら疲れ知らずで、長い事やれますね。子供に限らず、いくつになっても物創りは面白いと思います。器用、不器用に限らず。ただ、何を造るか、その対象が、自分が好きな物に限る。

目に見える形のある物に限らず、作る対象は何でも良いわけで、目に見えない、形の無いものであってもイメージを作るとかもあります。或いは、旅の計画をつくるという事もある。何故、物創りが好きなのか?多分、無いところから、有るものへと形創る、イメージを創る。ある意味、見えてくるというプロセスが人をわくわくさせるのだろうと思います。

という事は、面白さとは、この創るところにあるのかもしれません。無から有を創る。そういうイメージで見ますと、遊び方というのが見えてくるような気がします。クルージングの計画を創る。ただ、時間的な航程を作るだけでは無く、その間のイメージをも創る。それは実際出かけてからも創るイメージを継続できるかどうか。セーリングを創る。イメージを創る。実際セーリングしながら、自分のセーリングイメージを創る。単に、遊ぶという事から、遊びを創るイメージなんてのはどうでしょうか?

物を造る時、作られる物があり、造る自分が居るわけですが、これは造るイメージがし易い。しかし、セーリングを造るなんて事になりますと、形は何も無いし、実際に自分が造られる対象でもある。創るのも自分で、創られるのも自分、変な話です。でも、もう少し考えてみますと、自分をも含めて創るもう一人の自分が居る。そういう事になりますかね、やっぱり変な話です。

あるブイを回る。こうやって、ああやって回る。舵、セール、その他の艤装を操作する自分。それは時には楽しく、時には辛い事もあるかもしれません。しかし、それを創るもう一人の自分は、面白いに違いない。これに対応するには、今やっている事に何ら評価を与えないようにすれば良いのではないか?作られる自分は、ただひたすら無心になってやる。良いも悪いも無い。そうやれたら、きっともうひとりの自分が顔を出してきて、その面白さ、もの創りの面白さを味わえるのではなかろうか?一部を見るのでは無く、良い事も悪い事をも含めて、全体的にその面白さを味わえるのではなかろうか?

明日のセーリングはどうなるだろうとイメージを創る。当日、走り出したら、一切の評価をしないで、できるだけ無心にセーリングをしてみる。何があっても、良い悪いの評価をしない。ただ、こうして、ああしてという対応だけを無心にできたら、作られる方は何も考えないで、創る方はあるイメージを創る。良く解らん事を言ってます。でも、そこに何か秘密があるような気がします。帰ってきた時、その日のイメージが出来上がる。何も評価をしなくても、感覚だけは感じれる。帰ってきた時、その全体の感覚は残る。

面白さとはもの創りにあり。多少吹かれて、ずぶぬれになってかえってきた時でも、物創りとしてはそう悪くは無い。その場、その場で評価すれば良くは無いのでしょうが、トータルで言えば、そう悪くもなかった。考えてみれば面白かった。そういう創るもあるような。済みません。解らん事を。

ドジャーがあればスプレーを避ける事ができる。でも、暑い季節ならスプレー被っても良いような。海ですから。それも考えようによっては楽しい。ざぶんと被って、大笑い。いっその事、水着着て走るか?雨が降ったら濡れれば良い。そう思うとイメージはどんどん良くなるような気がします。イメージを創ると言っても、こうあらねばならないと固定してしまうと、面白さは無くなるかもしれません。
という事は、創るというよりも、そのままを一体どんなセーリングになるのだろうとぐらいの方が良いのか?そのままを眺められるのであれば。良い悪いでは無く、味わうという次元では。やっぱり、良く解らん。こうしよう、ああしようと思うとうまく行かない事が多い。そう思わなければ、味わう事ができる。その味わいがいっぱいあると、結構面白いような。良く解らんので、無視してください。

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