第三十二話 気の持ちよう

昔から、何でも気の持ちようとか言われますが、確かにその通りかなあと思います。以前に書いた、ドジャーの話。スプレー避けにはドジャーがあると便利。ですが、スプレー浴びても、海の遊びとして面白いと感じると思える事。そう思えた時、何でも無い事になります。

先日は10m以上の風、時折スプレーも浴びました。しかし、スプレーが嫌なものという意識が無くなった時、割と何でも無くなる。それだって面白さとして感じる事ができる。結局、我々が思ういろんな事は、良いと悪いに無意識に分離していますが、案外、考え方を変えただけで、受け取り方が違うのだろうと思います。スプレー浴びて、大笑い。面白さの演出というのは、こういうところにもあるような気がします。

あれも嫌、これも嫌、快走以外はみんな嫌。そうなりますと、めったにはチャンスはありません。その嫌と思う気持ちは、本当にそうなのか?飛沫そのものは嫌な物でも、良い物でも何でも無い。しかし、受け取り側が嫌と決め付けているに過ぎません。そういう物が、他にもたくさんあるかもしれません。無意識にそう決め付ける。そうなると、嫌な物がたくさん出てきて、面白さを逃す事になりかねない。本当に嫌なら仕方ありませんが。

こうあるべきという思い込みが、無意識に決め付ける事が多々あります。そこで申し上げたい。キャビンが狭いのは悪い事か?広いのは良い事か?キャビンは一見広い方が良いという決め付けがあります。しかし、それが及ぼす影響もあるわけで、キャビンはキャビンだけで単独で成立するものでは無い。

大きなヨットの方が小さいヨットより良いという話?これは本当にそうだろうか?もちろん、良い面もある事は事実ですが、でも、使いようです。昔は、買い替えの度に、サイズアップが常識でした。しかし、最近は欧米もそうですが、買い替えでサイズダウンされる方もおられる。それは何故か?

ティラーよりラットが良いという話。これは本当にそうか?ラットはコクピットで邪魔にならない。ティラーは棒がコクピット中央に延びてくる。確かにそうです。しかし、一方では、ティラーに伝わる感触は違うし、それに舵がどれだけ切れている状態かは一目瞭然であります。

他にもあります。便利は良い事か?確かに便利は良い事は間違いない。しかし、セーリングにおいて便利も良いが、強調しすぎると今度は面白味に欠けてこないか?いろんな操作をして、その反応を味わうのがセーリングなら、あまりにも便利というのは、どうでしょうか?

何も、今ある一般的考え方を否定するわけではありませんが、一考の余地はありそうな気がします。つまりは、どんな使い方をするかによって、どんな考え方をするかによって、良い物も悪い物も変化する。絶対的では無いという事になります。

ドジャーも良い、大きなヨットも小さなヨットも良い、ティラーもラットも良い。みんな良い。ただ、どう考えるかによる事になります。そして、その考えは変わる事もあれば、絶対的でも無い。もっと面白がる事はできないか?特に嫌と思っていた事が、考え方ひとつで、ころっと変わる事もある。そんな時、何か新しい発見をしたかのような気分になります。面白さが広がっていくような感じになると思います。

何かをし続ける事は、自分の気持ち、考え方の自分なりの進化をもたらす。人はこうだけれども、自分はこう。体験と気の持ちようによって、進化します。その自分の考え方なりが進化するところに、本当の面白さがあるのかもしれません。考え方が変われば、世界が変わる。世界が変われば、面白さも変わる。自分の気持ちが変わっていく様子、進化していく様子、それがまたセーリングに反映していくわけですから、そうやって互いに影響を与えつつ、全体が進化していく。それが面白さなのかもしれません。ただ、今日快走出来た。という味わいも貴重な体験ですが、スポット的に見た瞬間の快走の面白さと、長い目で見た、流れの進化による変化と、両方を見た方が良いのかもしれません。

木を見て、森を見ずという言葉がありますが、瞬間の事ばかりを見ていても、良いと悪いとに分離し、そうしますと悪い方が多い。快走なんてのは、そうしょっちゅうあるものではありません。それで、森も見て、全体の流れ、進化の具合、そういう事も意識した方が良いような。セーリングしていて、スプレーを嫌がるより、大笑いできた方が、きっと面白いに違いない。嫌な事が面白さに変わる。
そう思えるかどうか?どうしたら、そう思えるようになるのか?ちょっとしたきっかけなのだろうと思います。

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