第三十三話 遊びにはこだわる

どうせ遊ぶんなら、自分の遊び方にはでき得る限りこだわりたい。その道具にもこだわりたい。そういう気持ちは、自分の面白さを限りなく押し上げてくれる。ちょっとしたこだわりであっても、それがあるのと無いのとでは雲泥の差になるかもしれません。何でも良いや、というのとは違うと思います。何でも良いやと思うと、十分には遊べなくなる。

遊びはイマジネーションの世界を現実化していく行為です。遊ぶ事によって、脳は活性化され、想像力、創造力、行動力、集中力、感性も強化される。人間が持つ本質的な能力が強化される。そう思います。ですから、妥協した分、それらを諦める事になるのではないかと思います。ですから、遊びには、できる限りこだわった方が良い。自分の我侭で、自分の最も好きなやり方で、最も好きな道具で。それがかっこ良さの原点かと思います。

そして自分が成長すると、感性も成長しますから、こだわり方も変わってくる。そうしたら、また買い替え無くてはいけないじゃないか?そうです。でも、それは自分が変わったから、進化したから、そうなります。買い替えなくても良いように、将来の為に、今の為では無く、もっと何でもできる物にしようとか考えます。それは違うのではないかと思います。その時は、その時。将来はその時です。
今のレベルで、今最もこだわりたい方法で、道具で、やるところに意味がある。

本当にやり始めたら、ひとつのヨットで、最後までというケースはなかなかあるものでは無いと思います。それができるなら、幸いかもしれません。自分も進化し、ヨットも進化していけるなら、それに越した事は無いかもしれませんが、そうはいかない事が多い。でも、だからと言って、あまり先々の事ばかりを焦点に入れますと、今の面白さがどうなるか?

今思う、これだというものに焦点を当てて、それを実行し、遊んでいくのが良いかと思います。理屈というのは、大抵は、一般論です。一般論は多くの人達の集約した意見であり、平均化された意見です。可も無く不可も無く程度です。面白さとは違う性質のものです。中途半端なものです。こだわりは自分自身から出たものです。

誰よりも楽しく遊んでいる人は、平均の中には居ない。

本当は自分の中に、自分の楽しさ、面白さを持っているのだと思います。それを行為によって引き出す事が遊びなのだろうと思います。どれだけ引き出す事ができるかは、どれだけこだわるかによるかと思います。その面白さが表面に出てきますと、いつまでもそこには居られないので、そのまた次の面白さに進む。それが進化なのだろうと思います。そして、それがもっと面白くなる。

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