第九話 考え方次第 

何でも考え方次第とは言いますが、ヨットも同じで、ヨットをどう考えるかで、どうにでもなる。ある人は気軽に考え、またある人は難しく考える。それで、ヨットもそれに呼応して、気軽にも難しくにもなる。ヨットは何も考えないのですが、人間が考える。全てはそれに呼応して変化する。

ヨットは難しい?イエス。ヨットは簡単?これもイエス。ヨットをどう考えるかによって、自分の行動もそこにへばりつき、ヨットもそれなりになる。まずは、ヨットなんて簡単なもんだと思った方が良い。ちょっと練習すれば、風さえあればヨットは走る。舵もちゃんと切った方向に走る。舵を切ってもどこに走るか解らないでは難しくなりますが、ちゃんと舵の方向に走る。簡単なもんです。難しく考えすぎるとハードルが高くなって乗れなくなります。ヨットはうまい人だけが楽しめるものでは無い。

実は、ヨットは簡単なので、多くの人達がすぐに動かせるようになる。それは良い事なのですが、反面、動かせるようになったら、次に何をするかになります。彼女を乗せて、お弁当もってピクニックセーリング。これも楽しいのですが、そういう方向に行ってしまうと、天気の良い日、彼女が来てくれる日にしか乗れなくなる。そこが問題であります。動かせるようになるまでは、覚えようとして、結構楽しめるものです。ですが、すぐに動かせるようになりますから、すぐに違う事を考え出します。
それは、彼女でも家族でも、友人でも同じ事、動かせるようになったらセーリングはそこでお仕舞いにして、次に違う事を考え出すというのが常であります。

それが悪いわけでは無く、おおいに結構なのですが、それが主になり、セーリングする事自体をあまり重視しないようになる。そうなりますと、自然に良い時を狙ってしか、ヨットに乗らなくなります。それも休みと重ならないと乗れない。よってそういう日は少ないので、ますます乗らない。セーリングはできるが、セーリングの面白さを味わっていないのかもしれません。デートセーリングは確かに楽しい。では、毎回デートセーリングしてはどうでしょう。そうできるなら、良いと思います。しかし、実際はそうはならない。

やっぱり、セーリングを普段は自分のスタイルで、人頼りにしないで、自分のやり方で楽しむ事が主にあり、そのうえで、デートセーリングがあった方が良いのではないかと思います。ヨットは簡単なのですから、まずはそこから入って、セーリングの難しさを少しづつ見ながら、上達しながら、いろんなセーリングを味わっていく。そういう、いろんなセーリングを味わって、時々デートセーリングなんかもしますと、きっと違うニュアンスでデートデーリングも楽しめるようになるのではないかと思うのですが。

ヨットは簡単、確かに動かす程度なら簡単ですが、いつまでもそこに居ますと、飽きてきます。簡単な事には人は簡単に飽きる。ですから、少しづつ難しい面にも挑戦しなければ飽きてきます。セーリングに慣れる必要はありますが、慣れるだけでは飽きてきます。上のレベルへ進まなければ面白さも解らない。車の運転は慣れてしまえば、それで良い。移動する事が目的ならそれで充分です。でも、ヨットは車とは乗り方が違います。移動するのが目的というより、操船していかに動かすかが目的です。それを楽しむのが目的です。という事は、そのセーリングの質を問う乗り方をしないと、簡単は簡単で終わり、そこまでということになります。そこまでになりますと、デートするか、家族誘うか、何かセーリング以外の目的を持ってこないとできなくなります。そうなりますと、たまにしかチャンスは無くなる。それでは、もったいない。

せっかくやるんなら、たまにだけを楽しむのでは無く、セーリング自体を楽しむ事を考えていただければ良いかと思います。そうなれば、チャンスはもっと広がるし、きっとその方が面白いと感じていただけるのではないかと思います。面白いと感じたら、もっと乗りたくなる。それで良いんだと思う次第です。

追求すると言いますとたいそうな言い方ですが、少しづつレベルを上げるだけです。舵の切り方、トリミングの仕方、マストコントロールの仕方、そういうのを少しづつ理解を深めながら、もっとうまくなろうとする。乗れるか乗れないかでは無く、乗るのは簡単ですから、うまくなろうとする事が必要かと思います。それが面白さではないかと思います。自動車を運転するのとは、次元が違う、一般的に、車を運転するのが目的にはならないのですが、ヨットはセーリングするのが目的になる。
是非、セーリングを目的として、セーリングを味わって、セーリングを面白いものに変えて頂きたいと思います。

そして、たまに、デートセーリングを楽しみ、家族と楽しみ、ピクニックセーリングを楽しむ。主と従をきちんと分けると、この先の何十年かのヨットライフは違ってくると思います。

でも、考え方次第と言うのなら、全く考えないのはどうか?考えない時は何次第?こうやって乗る、ああやって乗る。こうして、ああして、いつも考えていますが、そうすると、へそ曲がりの性格で、考えないならどうなるんだと、つい考えてしまいます。考えるから、こうしたら良いとか悪いとかありますが、それでは考えなかったらそういうものは無いじゃないか?ひょっとすると、純粋に味わうには、何も考えないのが良いのかもしれません。今できる方法で、できるセーリングをする。それをそのまま味うとどんな感じ?自分の良いものを求めるやり方もあるでしょうが、何も求めず、ただ味わうというのもある。それが楽しめるかどうかは知りません。特定に何かを求めれば、望まない状況も必ず出てきますが、何も特定を求めなければ、望まない状況も無い。ただ来るものを味わうのみ。そんな事ができるのか?できるのなら、究極的な遊びなのかもしれません。

恐らく、長い年月をかけて、求めて、求めて、試行錯誤して、最後に行き着くのかもしれません。良いも悪いも無く、ただその時の状況を感じるのみなのかもしれません。速くても、遅くても、吹いても吹かなくても、いつもそれなりに楽しむ事ができる。それができるのなら、こんなに気が楽な事はありません。ひょっとしたら、最も楽しむ方法かもしれません。ちょっと枯れた感じもしないでは無いが
ちょっとひとレベル越えた感じもしないでは無い。

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