第九十八話 環境

我々は環境に依存します。風はどの程度か、波はどうか、気温はどうか等によって、気分は違いますし、セーリングも違ってきます。環境は、何も自然条件に限らず、ひとりで乗るか、だれと乗るかによっても違いますし、乗るヨットがどんなヨットかという事も環境のひとつです。つまり、自分以外、全ては環境であり、その環境に依存しています。いわば、環境の奴隷という事になります。

そして、我々の方はと言いますと、自分自身を動かすのは、自分の心という事になります。これは感じる事から頭脳を使う意思までを含みます。つまり、自分の心があって、周りの環境がある。
そして、心は環境によって意志も感じる事も左右される事になります。

環境は、意志でもって変える事もできますが、全てではありません。変える事ができる環境と変えられない環境があります。できるだけ環境を整えようと、いろんな事をしたり、いろんな物を手に入れたりしますが、それでも、自然は変えられないし、自分以外の人の意志も変えられない。

誰かを誘っても、都合が悪ければ、今日は出せませんという事になります。それをシングルでも乗れるようにすれば、環境条件がひとつ減る事になります。環境条件が多ければ多いほど、それらが全部整うという機会は滅多には無くなります。

それで、できるだけ整える事ができる環境は整えるようにし、それ以外は嫌がっても仕方ありませんので、その変えられない環境をどう考えるかという事によって、遊ぶ幅ができてきます。

また、我々の感情もまた、我々の意志でもって自由にできるわけでも無く、考えてみましたら、感じてしまう事は感じてしまい、意志でもって変える事は難しい。ある事が起こって、自動的にある感情が湧いてきますが、これを意志の力で変える事は難しい。怒る事は怒るし、可笑しい事は笑ってしまう。例え、表情は抑えても、心の中では笑ってしまいます。

つまり、我々は環境の奴隷であり、感情の奴隷でもありますね。自由はどこにあるんでしょうか?
環境によって、自由意思では無く、自動的にある感情を持ってしまいます。遊んでいるようで、遊ばされているのかもしれません。

そこで、少し考えました。風が弱かったり、強かったりで、自動的に感じていた事を、自由にコントロールする方法は無いか?それは、少しでも自由を手に入れる方法であり、それがもし、少しでもできるのであれば、それこそ我々は自由を手に入れた事になります。風が弱いとつまらないという感情を自動的に抱くのでは無く、ちゃんと意志のコントロールによって、或いは、感情のコントロールによってどうにでもできるのなら、我々はそれこそ自由に遊ぶ事ができます。

それは、多分、まずは何を感じているかに気付く事が最初だろうと思います。風が弱い。つまらないと感じる。そのつまらないの中に浸るのでは無く、つまらないという感じを持っていると気付く。すると、つまらないのままで良いのか?という事になり、何か方法は無いか?という方向に意志が動き、何かを見つける事ができるかもしれません。

風が強いと恐怖感を感じる。その恐怖感のまま走り続ける事もできますが、恐怖感を持っていると気付くと、その対応の仕方も違ってくる。気付いた自分は冷静な状態で居られます。つまり、どんな時も感情のとりこにならずに、冷静で居られる。すると、その感情が嫌なら、冷静にどうしようと対応ができる?

これがいつも可能であるなら、我々はいつも自由であり、自分の意志でコントロールをする事ができるのではないか?すると、自分の意志で遊ぶ事ができ、嫌な感情が無くなるかもしれません。
環境はコントロールできませんが、自分の感情をコントロールできれば、いかなる時も、冷静に対応し、最適な操作ができるのではないか?まあ、実際はこうも行かないとは思いますが。
しかし、あまりにも、環境次第で、気分が良くなったり、悪くなったりでは、自分で生きてる感じはしませんね。

その生きてる感じを、環境を変える事で確かめようとしているのかもしれませんが、何ともならない事も多いので、環境の完全コントロールはできないので、せめて、自分自身をコントロールできないかな〜と思ったりします。それができてこそ、ゲームを本当に楽しめるようになるのではないか?
何からも翻弄される事無く。理想ですが。

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