第三十七話 究極の面白さ

デイセーリングにおけるシングルハンドを推奨しています。シングルハンドで自由自在に操船できて、人馬一体ならぬ、人船一体を目指し、セーリングを自由自在に味わう。そういう事を推奨しています。

しかしながら、仮に、そうなれたとしても、究極の面白さとしては完結しないのではないかと思います。本当は、誰かとその面白さを分ち合う事こそが、そのセーリングの味わいを完結してくれるのではないかと思います。仮に自由自在では無くとも、その分かつ事がその味わい、面白さを完結してくれるのではないでしょうか?

例えば、レースに参加して優勝したとしても、誰もその事について感心を示してくれなかったら、ちっとも面白くありません。オリンピックで金メダルを取ったとして、誰一人、自分以外の誰も興味を示してくれなかったとしたら、面白くは無い。それと同じで、誰かが、速かったですね、と一言、言って頂けると、それが面白さになります。だからこそ、またレースに出るだろうし、オリンピック選手は、過酷な練習にも耐えられる。

何も、褒め称えられる事だけが面白さでは無く、けなされようと、その反応がある事が必要なのだろうと思います。仮に、良い成績が取れなかったとしても、周囲の反応があるからこそ、その反応に落ち込む事もあるかもしれませんが、今度こそと思う事もある。これが、周囲が無反応であれば、ちっとも面白くは無い。そういう意味で、我々個人の遊びであるヨットも、同じかもしれません。褒められようが、けなされようが、反応があるという事、それこそが、究極的な面白さではないでしょうか?

確かに、シングルで、帆走していて、しびれるようなセーリングに出会う事があります。とっても面白さを感じます。でも、それだけでは不十分なのだろうと思います。しびれるような帆走では無くても、誰かとその面白さを分かち合える事、それが究極的な面白さ、楽しさではないかと思います。セーリングから帰ってきて、その話をする。誰かと酒飲みながら、話をする。そういう事が面白さの究極かもしれません。

しかし、その味わいを得る為には、話だけでは面白さがありません。その背景に、自分の本当の体験とかが必要になります。自分で、シングルで、何かを求め、いろんな体験をする。その面白さが現実となってこそ、話には事実という背景があるからこそ、面白さがある。

シングルハンドで、自由自在を目指して、いろんな体験をして、工夫して、自分の面白さを追求します。腕も上がります。でも、最終的には、それを誰かと分かつ事が必要なのではないでしょうか?だから、誰かとヨット談義をします。最近、稼働率が低いのは、このヨット談義が無いからかもしれません。ですから、酒を酌み交わし、ヨット談義をおおいにしていただきたい。

それと、シングルハンドの方も、たまには、誰かと一緒にセーリングする事も必要かと思います。自分がシングルで求めてきたセーリングを、一緒に分かつ誰かです。別にその人がクルーである必要も無く、ゲストでも良い。感じる心を持つ人なら誰でも良い。つまりは、誰でも良いわけです。ヨット初体験の方でも良いわけです。

別に褒めてもらいたいのでは無く、自分のセーリングを少しでも、誰かと分け合う事。これこそが究極の面白さではないかと思います。その為に、普段は、シングルで、セーリングを楽しみ、上りから下りまで、いろんな工夫をして、難しさにも挑戦して、いろいろな面白さを求める必要があります。

クルージングは、ヨットでどこどこに行ったという体験の話は、ヨットを知らない人が聞いても、少なくとも行った先の事は説明できます。そんなに遠くまでとか解ります。ですから、自分の体験を少しでも分かつ事ができますから、面白いのです。でも、セーリングにおいては、話だけでは解らないかもしれません。でも、本当に、心から味わった体験は、聞き手にも伝わるものがあると思います。ですから、そういう意味でも、セーリングにおいては深く味わっている必要があるのかもしれません。

あるミュージシャンが居て、毎日、毎日、何時間も練習して、上手くなっていく。それはそれで、面白さを感じるでしょう。でも、それだけでは完結しない。誰かに聴いてもらいたい。それを聴いた人が褒めても、褒めなくても、聴いてくれる事でひとつが完結すると思います。けなされたとしたら、もっと練習して、上手くなりたいと思う。そして、いつかは、自分の求めた音楽を認めてもらいたい。
良く、人はひとりでは生きられないと言いますが、必ず、他人を必要としているのかと思います。
自分の周りに居る人達の反応が必要なのではないでしょうか?

この事は、デイセーリングでも、クルージングでも、レースでも、みんな同じ事だと思います。一緒に乗らないにしても、誰かと話をして分かつ。一緒に乗ればもっと良い。でも、それがしょっちゅうでは、また違うのです。普段はシングルで、時に、ゲストを、クルーを、デートセーリングを、ピクニックを、どんなにしびれるようなセーリングを体験したとしても、それでは完結しない。

その為に、普段は自分の面白さを追求しておかなければなりません。それが深くなればなる程、分かつ部分も深くなる。人は実にやっかいな生き物なのではないでしょうかね?いつも居ると煩わしくなる事もある。でも、いつも居ないと、それも面白くない。シングルが良くて、時にプラスαを。
話をして、セーリングして、体験を共有する事、その反応を味わう事が究極的に我々が求める事ではないかと思います。仮に奥さんに反対されても、今日も行く。その方が無視されるより遥かに面白いのです。無関心程、つまらない事はありません。だから、話をしよう。ピクニックもデートもします。でも、シングルハンドセーリングの追求もします。いろいろ混ざっているから面白い。

最高級のステーキがあっても、肉だけでは面白くない。やはりそこにご飯があったり、野菜があったりするから美味しいと感じます。いろんな味がある方が良い。ステーキがセーリングだとしたら、そこに最高級を目指す。加えて、野菜やご飯のような、他の人との関わり、反応等がセーリングの味わいをさらに引き立てる。そういうものではないでしょうか?これら全部が揃ってこそ、美味しいご馳走と言えるのかもしれません。ステーキだけでは成り立たない。野菜やご飯だけでは成り立たない。全部が揃ってご馳走となる。

ですから、セーリングをして、誰かとピクニックして、デートセーリングして、ヨット談義をして、数多くの味わいを持つ。でも、その中でステーキがセーリングがである事、それが主役である事、これは忘れてはならないと思いますね。まずは、このステーキが美味くなくてはなりません。セーリングを十分に味わう事が大切です。これは究極の面白さを味わう為にも必要な面白さなのではないかと思います。ですから、やっぱりデイセーリング、中でもシングルハンドを推奨します。

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