第五十一話 合理性と情

年齢のせいかどうかは解りませんが、例えば、テレビで職人の技とかいう伝統的な技術を見ますと、感心してしまいます。技術の高さ、精密さ、品質の高さ、いくらコンピューターが進化しても、人間にしかできない技術であります。しかし、これらは、資本主義の経済効率という観点で見るならば、決して合理的とは言えません。

資本主義は、資本を中心に、自由な競争によって発展するものとするなら、それは経済的合理性の追求という事になると思います。という事は、それが伝統技術を駆逐してしまうのか? というと、そうでもありません。資本主義、自由競争と言いつつ、我々は情の部分で、合理性とは異なる物を求めているのではないかと思います。情の部分というのは、効率一辺倒では無く、心の部分だと思います。それゃあ、そうでしょう。我々は心を持つ人間として、生きていいるわけですから。

という事は、我々は合理性だけでは生きていけない。否、生きてはいけるんでしょうが、実につまらない。殺伐とした世の中になってしまうかもしれません。合理性だけでは、物質的豊かさを享受したとしても、心は豊かににはなれない。しかし、一方で、情の部分だけでは、現代の物質的豊かさは得られない。

ところで、国会がとうとう解散してしまいました。野田さんは、TPPが争点だと言われます。これは自由競争の推進です。合理性の部分にあたると思います。そこに人間の情の部分、伝統技術や日本の風景や、日本独特の残していきたい文化、慣習、これは日本に限らずですが、そことの整合性はどうなっているのか? 一旦、駆逐してしまえば、二度と取り戻すことができない。今度の選挙は、日本の将来にとって、重要な選挙になりそうな気がします。

これはヨットレースで言う処の新しいルール作りと同じです。レーティングをどうするかの話と同じです。競争というと、それが経済だろうが、ヨットだろうが、同じなんだなと思ます。

それで、ヨット界がレース一辺倒になり、ヨットの世界にレーサーしか存在しないとしたら、それはそれでつまらないと思います。レースも良いし、クルージングも、セーリングも良い。いろいろあった方が面白い。でも、幸い、どんなルールを作ろうが、レースが他の活動を駆逐する事はありません。

しかしながら、経済におけるルール作りは、他を駆逐する可能性を持ちますから、怖いですね。我々の生活のありとあらゆる部分が、経済と繋がっているわけですから。だからこそ、慎重にならざるを得ません。

自由という言葉は良い響きがします。しかし、自由はルールあっての自由であり、ルール無しではただの混沌という事になります。合理性と情のバランスをいかに取るか?近頃の政治や経済の騒動によって、それと同じことがヨット遊びにも言えるんだな〜と気付きます。

ですから、データは必要です。客観的な観察も必要です。合理性、便利性も必要です。でも、情も必要です。そこをうまくバランスしないと、ヨット遊びの本質である処の、楽しさ、面白さ、継続性、というものが失われるかもしれません。

可愛いとか、美しいとか、ドキドキしたとか、ヤッターとか、気持ち良いとか、そういうものが必要なんですね。

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