第八十二話 遊びの精神

ついに選挙にも決着がつきました。株価も期待されて上昇をしているようです。考えてみますと、今回の選挙は新自由主義と言われる自由のさらなる推進、市場原理主義とも言われた自由化に対して、過度の自由化には反対し、守るべきは守るという、適切な言葉が無いのですが、ちょっと保護主義的なイデオロギーの闘いであったかもしれません。

いずれにしろ、経済は成長させなければならない。その手法の考え方の違いという処でしょうか。成長する事には大いに賛成であります。しかし、これだけ成熟した社会ですから、後進国が成長するのとはわけが違うと思います。これからの日本の成長には、成熟社会が成長する新しい方向性を持った成長モデルが造れると良いな〜と思ったり。

ただ、やみくもにGDPを上げていくという成長では無く、みんなが望む幸福みたいなものを実現できる成長の方向性の模索が始まるかもしれません。ただ、効率や合理性、便利等々の成長では無く、もちろん、それらも必要ですが、違う何かが加わる必要があるかな〜と思います。何故なら、そこの国で生きているのは、我々人間でありますから。その人間は常に合理的であるわけではありませんし。

そこで必要なのは、遊びの精神ではなかろうか? 遊びと言っても、快楽を指すのでは無く、心の余裕みたいなものでしょうか。便利、効率、合理性、経済性、これらは我々が長く求めてきたものですが、これに遊びを加えた成長とでも言うんでしょうか?

一生懸命仕事をします。遊びの時間でも一生懸命時間を埋める。仕事も遊びも必死です。でも、これからは、いつも、心のどこかに気持ちの余裕が生まれてくるような、そんな社会というのはどうでしょうか?それが自分の行為を、気持ちのどこかで楽しむ事に繋がるような気がします。

元々勤勉な国民ですから一生懸命やりますが、一方で、それを少し余裕を持って見ている自分が居て、それを楽しむ。そんな感じでしょうか? 物質的に恵まれながら、幸福度は低いと言われる日本。そこを何とか改善できればと思います。

それには価値観の変換が必要になると思います。日本独自の高度なシステムが、人をさらに忙しくさせて、ストレスもあったわけですが、今度はその高度なシステムによって、人々に余裕をもたらすようなシステムにできないのかな〜? 誠に曖昧で済みません。

仕事にも遊びが必要で、遊びにもまた遊びが必要で、その遊びは言葉を言い換えれば、余裕という事になるのかな〜と思います。そんな理想的な事は無理なんでしょうか?

ヨット遊びにおいて、一生懸命やって、それを楽しむ心の余裕。便利さばかりでは無く、スピードばかりでは無く、性能ばかりでは無く、だからと言って、ぼ〜としている余裕では無く、自分のしている事を楽しめる余裕です。明確にはわかりませんが、何だか、新しい転換が求められているような気がします。

文化とか、わびさびとか、美しい四季の移り変わりとか、伝統とか、これらは全く経済的でも無く、合理的でも無く、でも、そんな遊びと言いますか、余裕が無いと人間はロボットと変わらなくなってしまうような気もしますね。

官から民へと言われましたが、民は市場原理で競争し、効率と合理性、そして生産性を求めるのが本来の使命です。ですから、官こそが、それ以外をになう事になる。そしてそれが可能となるような経済成長とシステムが必要とも言えます。そんな事ができるのかどうかは解りませんが、でも、何かを考えた方が良いような気がします。転換期だと思います。

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