第72話 バーチャルリアリティー

仮想現実と言われます。コンピューターが発達してきて、コンピューターの中で仮の世界
を創る。その世界の事です。コンピューターでゲームをすると、自分がその主役として、そ
してあまりにも技術の発展のおかげで、それが現実であるかのような錯覚になる。ちょっと
言い過ぎですが。そのコンピュターゲームがとてもあふれています。自分は何の被害に合う
事も無く、あらゆる感覚が得られるのです。その中に入りこんだら、かなりの感覚を得られる
ようです。でも、実際は自分が傷つかない事を知っていますから、平気なのです。という事は
現実の感覚とはやはり違う。ただ、近い感覚が得られる。安全の中に居ながら。

これは実際の現実とどこが違うでしょう。コンピューターがさらに発展し、映像もサウンドも現実
に見える映像、現実に聞こえる音と、人間の感覚では区別できない程発達した時、現実と違う
ものは何でしょうか。360度を映像に囲まれ、コンピューターの音だけが聞こえる。そこに、音
だけでは無く、匂いや、触った時の感覚さえ。コンピューターで脳に伝わるとしたら、でも、やはり
仮想なんですね。何故か、頭脳が仮想と知っているからです。ただ、それだけの違いです。自分
が何をしても安全だと知っているからです。あくまで、ゲームだと知っているからです。ですから、
何をするにして心配する必要など無いのです。現実と仮想の違いはこのたったひとつ。知っている
という事ではないでしょうか。

でも、まてよ、現実は知っていると思っているが、これが仮想で無いという証拠は無い。死というの
は、いわゆる、ゲームオーバーという事では無いのか。私がどこかで、現実だと思っているが、実際
はゲームをしているのかも知れない。それを知らないだけかもしれない。

まるでSFの世界のようですね。ここで、現実はゲームをしているのだと仮定しますと、どうなるでし
ょうか。何でも、思いきってできますね。失敗を恐れる必要も無ければ、傷つく事も無い。他人がどう
思うかは問題じゃないし、自分の思うとおり、何でも存分にする事ができる。でも、ゲームではなか
ったら、傷つきますから、心配です。結局のところ、自分が安全かどうか、それにつきる事になります。

仮想の世界では近い感覚と言いましたが、本物の感覚ではありません。近いだけです。それは安全
が保証されているからです。安全が保証される限り、近い以上にはなり得ない。そこで、どれだけの
感覚、素晴らしい感覚、感動を得るかは、自分がどれぐらい保証の枠から踏み出すかにかかっていま
す。危険を犯す覚悟があるかです。危険と言っても、程度問題です。家を一歩出るのも危険を犯してい
ます。交通事故に遭うやもしれない。でも、それをしないとゲームはできない。或いは、つまらない退屈
さを覚えます。自分が完全に安全の中に居ては、良いも悪いも本物の感覚は得る事ができない。

そこで、どこまで危険を犯すかです。危険と言っても、荒波という危険である事ばかりでは無く、どういう
新しい場面に向かうかという事です。ヨットに乗らずして、想像しては、それは仮想です。得られる感覚
は本物では無い。自分が出かけて行って初めて、危険をわずかでも感じてこそ、現実の感覚となる。
だから、頭でいくら想像しても駄目なのです。行動してこそ、体験となり、その体験が感覚を生み、その
感覚こそが生きている証です。

世の中、頭脳が重んじられますが、本当は感覚こそが主役なのです。頭脳がいくら良くて、明晰であっ
ても、ひとつの本物の感覚には勝てない。仮想では無く、現実の世界でどれだけの感覚を得たか、その
為には行動する事ですね。ヨットに乗ることです。セーリングする事です。そこから得られる感覚は気が
つかないかもしれませんが、良く考えてみれば生きてる証でもある。好む感覚もあれば、嫌いな感覚も
ある。でも、生きている事には違いない。その中から最高の自分というものが解ってくる。頭では解らない
と思いますね。この感覚を得るには、乗るしか無いのです。人には選択の自由がある。だから、乗るのも
乗らないのも自由ですが、どんな感覚を得たいか?それによります。乗らない自由は安全という感覚を
得る事はできますが、最高のフィーリングを得る事はできない。少し危険を犯して、体験すれば違う感覚
が得られる。どれを選ぶかです。安全という感覚で満足するか、或いは違った感覚を得たいか。自分で
意識してみてはいかがでしょうか。

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