第六十三話 ゲームの達人

世界は数学で表す事ができるのかもしれません。しかし、それは世界の半分でしかない。何故なら、我々はもうひとつの世界、物理に対する心、感情、そういう世界も持っているから。それを表現するとしたら、国語でありますね。

考えてみましたら、物理の世界があって、体はそこに生きており、心は精神の世界に生き、その二つが同時に重なり合っている。言わば、ふたつの世界を同時に生きているという事になります。

セーリングをする時、物理の世界で理屈を考えます。ただひたすらスピードのみを求める時、それは数学だけで事足りるかもしれません。しかし、そこにフィーリングなんぞ言うもんですから、数学だけでは表現できなくなる。でも、これを切り離す事はできません。我々の世界は常に、数学と国語の世界に生きている。

それで、この両方をうまくやるには、客観的な観察が必要になる。一切の感情を入れず、完全なる客観性が必要になる。そんな事ができるのか? それはちょっとまだ解りませんが、もし、できると、物理を観察し、心を観察し、そのバランスを上手く取る事ができるようになる。

すると、自分自身は、物理の世界でも心の世界でも無い、客観の世界にもうひとり存在する事になります。そのもうひとりの自分は、多分、両方の世界をうまく操る達人になるかな?果たして、その達人は面白い人生を持てるのか? 多分、人生はゲームであると言うでしょうね。

それだけでは面白く無いかもしれない。だから、客観に居る自分が居て、観察し、時に理屈で考え、時に感情を味わう。みっつを行ったり来たり。それが良いかな?

セーリングにおいて、時に応じて、理屈を徹底的に考える時も必要でしょうし、また、感覚的な追求も必要だろうと思います。そのバランスをどうとるかという客観的な観察もあって、それを使い分けていけると、最高の自由自在が手に入るのかもしれません。

自由自在とは、技術的に上手いとか、豊富な知識とか、それだけでは無く、理屈と感情の世界をうまくコントロールできる事、それは技術や知識レベルが低くても、できない事では無いような気がします。だから、自由自在はどこにでもある。ただ、それには徹底的な観察が必要なのかもしれません。

もし、そうなら、ヨットを最高に遊ぶには、客観的な観察を常に持ちながら、そのうえで、技術と知識の習得で、レベルアップして行く。そして、感覚は自動的についてくる。決して、技術レベルでは最高では無いかもしれないが、その各レベルにおいて、最高に遊ぶ事ができるのではなかろうか?

技術を学んで、そこに慣れたら、今度は感覚重視、そこにある程度慣れたら、また技術を学び、そしてまた感覚の方と進むのかな?兎に角、何がしかの事を集中してやっていけば、そのうちすごい事になります。セーリングの達人になるのは難しいが、ゲームの達人にはなれるかもしれません。
プロのヨットマンを目指すのでは無い限り、ゲームの達人になった方が面白いのかもしれません。

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