第九十四話 言葉

日本の気候は明確な四季があり、また、それを感じ取る民族の繊細さがあります。ですから、日本語の語彙は非常に豊富であります。人は言葉をもって考えますから、語彙が豊富である事は、様々な状況を考え、違いを感じたからこそ、言葉が生まれてきた。感じなかったら、言葉も生まれません。

つまり、日本人は非常に繊細な民族という事になります。例えば、風を表現する言葉だけでも、ちょっと調べてみますと、約250種類ぐらいの言葉があります。あらゆる風の状態を250にも分けて感じ、考えた。多分、他の言語には、これ程の種類は無いのではなかろうか?

繊細が故に、強風なんかでは、欧米人以上に感じる処があり、例えば、強風に対する危険性への感じ方が欧米人以上に大きく感じてしまうのではなかろうか? そのエピソードとして、もう10年以上前ですが、ヨーロッパから身体障害者が何人も日本に来て、ヨットに載せて欲しいという依頼がありました。そこで、あるオーナーと相談して、実行する事になったわけですが、二日目は強風で、障害者という事もあり、こちらはやめた方が良いと考え、でも、随行者は何でも無いと言う。それで、実行しましたら、彼らは、強風を楽しみ、スプレーを浴びては歓声をあげる。違うものだな〜と思った事があります。

ヨットは風で走る。その風で如何に走らせるか。それはヨットの性能であり、乗り手の知識や技術に寄ります。それが欧米人のスタイルだろうと思います。それは、ヨットの性能や知識、技術が主であり、風は従えるものという感覚ではないかと思います。しかし、日本人の場合は、その感性が故に、風を主として考え、ヨットの性能や知識、技術は従という感覚があるのではなかろうか? これは似ていて、非なるものという感じがします。自然に対する敬意の念の違い?

ヨットレースは欧米人のスタイルとしてフィットしている。でも、レース以外のセーリングを感じるスタイルは日本人の感性に合っているのではなかろうか? レースは風を乗り越え、相手を打ち負かす行為であり、一方、セーリングはその状態を愛でる行為です。もちろん、どちらも両方やりますが、でも、感性という点で言うと、微妙に違う様な気がします。同じ様な行動をしながらも、両者は微妙に違う。スタンスが違うとも言えるかもしれません。

英語で、イエスかノーか問われても、その間に多くの中間的な処もある。それが日本人の曖昧さと捉えられる事もあるかもしれませんが、こちらとしては、イエスかノーか、そう単純では無いと感じる。これは感性の違い、それが語彙の豊富さの違いになり、彼らは言葉で表現できない部分をしゃべる時の抑揚の大きさで補うのかもしれません。

さて、そうなると、日本人スタイルは、セーリングしながら、如何に走らせるかを考え、でも、その状態での走りを味わう。単純に速いか遅いかだけでは無く、いかなる状態かその時の自分の感覚を愛でる。相手艇より速いかどうかという以外に、自分の走っている状態を愛でる事に、欧米人以上に感性が注がれるのではなかろうか?

つまり、セーリングして、風に対していろいろ操作して、より速く走らせる工夫もする。しかし、それだけでは無く、その状態をより味わって、愛でる部分も大きいのではなかろうか?ですから、デイセーリングというスタイルは日本人の感性ににフィットすると思うのであります。そこをもっと明確に意識して、走らせる工夫をしながら、同時に、その瞬間瞬間の自分の感じ方も意識していく。デイセーリングのスタイルはこれではないか?そして、我々日本人の感性に合うスタイルではなかろうか?

好むと好まざるとに拘わらず、目に見えない感覚への繊細さが、欧米人とは異なります。欧米人がデジタル的だとするなら、日本人はアナログ的なんだろうと思います。イエスかノーか? 便利か不便か? 速いか遅いか? そんなデジタル式では無く、その間を感じるのが日本人の繊細さかなと思います。欧米人の合理性とは違う。わびさびなんて言う感性を言葉で表現するのは難しいですが、日本人なら何となく解ります。

余談ではありますが、英語教育をもっと小さい頃から始めるという話がありますが、日本語がまだまだ十分では無い時期から、英語を始めるというのはどうか? 言葉は単なるコミュニケーション手段では無く、民族のアイデンティティーをも表す。日本人としてのアイデンティーも確立しないうちから、他の言語を習うと、どうなんでしょうね? 日本人では無くなる?

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