第六十九話 遊びの文化


      
食文化というのがあります。食は本来生きる為に必要であります。しかし、動物ならまだしも、我々人間にとって、食はただの生命維持の為だけでは無く、メニューを考え、料理の仕方を考え、器や盛り付け、見た目の美しさまで気にします。それが文化であります。我々はこの文化無しに生きられるのでしょうか? そして、この生命維持を超える部分は遊びだと思います。本来の目的に対して、無くても良いものです。

考えてみれば、我々の行為には、全てにおいて、本来の目的以上に、遊びの部分が含まれます。衣食住という基本においても、暖かければ服は何でも良いわけじゃありません。色、柄、似合うかどうか、お洒落なんかも気にします。家でも同じです。それらの、基本的役目以上の追加された部分は、全て遊びだと定義したい思います。これは良い気分の追求です。そして、これらは人間にしか無い。つまり、動物と人間を分ける決定的な違いは、この遊びの文化にあるのでは無いでしょうか。

さらに、この遊びの文化は、基本的な生命維持とは関係の無い分野にまで及びます。街並みの景観とか、田舎の美しい風景とか、地方の祭り、或いは、芸術やスポーツにしたって、生きていく上で必ずしも必要というわけではありません。でも、それらが無い世界はどうなんでしょう? これは遊びの欲求の広がりを意味します。それを想うと、我々人間の欲求は、この遊びにあり、その広がりにあります。遊びこそが、人間を人間たらしめているのではないでしょうか?そこに我々が求める豊かさがあり、それは、良い気分の追求なのではないでしょうか。

あるちょと面白い話を聞きました。ヨーロッパで、イタリアという国、いい加減で、泥棒は多いし、女の尻ばっかり追いかけている、そんなイメージの連中、でも、ヨ―ロッパからイタリアが無くなると寂しいよね。という落ちがついてます。 何だか、解る気がします。人間しか、そんな事は思いません。

さらに、この遊び文化を追求する為に、頭脳があります。これも人間の特徴です。産業革命があり、ルネッサンスがあり、科学の進歩があります。これって、よくよく考えて見れば、遊びの文化と考えても良いんじゃないでしょうか? 何故なら、生きる為だけでは無く、より良く生きる為ですから。ですから、我々は遊びをもっと大事にした方が良いと思います。

そこで、ヨット文化。 このおおいなる遊びの文化を、どれだけ楽しめるのか? そこに人間としての、豊かさ、心の広がりを感じます。もちろん、芸術もスポーツも、地方のお祭りもみんな同じです。全てが合理的に判断される時、一切の無駄を省いてしまう時、極論を言えば、終末は近いと言えるのでは無かろうか?

もちろん、合理的な考え方も必要で、極端にならない事が必要だと思います。それは兎も角、その大いなる文化を、何とか広げていきたいな〜と思います。その方法はいろいろありますが、そのうちのひとつとして、デイセーリング推進担当は、私が、と勝手に思ってます。

そのセーリング、合理的に考えて走らせ、その文化を楽しむ。両方を程良くブレンドしています。人間の英知なんだろうと思います。理屈だけじゃ面白く無い。理屈無しでは走らせられない。科学と文化的側面の二つが一体となって初めて楽しめる。ヨットって、本当にすごいんです。人間の持つ頭脳と味わいの両方の要素を持っているんです。

        

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