第十八話 ヨット遊びは欧米文化


      

 
ヨット遊びは欧米文化、それはやっぱり、個人主義に基づく文化では無いかという気がします。レースならチームワークというのもあるけれど、それだって個人主体、セーリングやクルージングなら尚の事。自分で考え、行動し、リスクは自分で取る。全て自分次第、自己責任そのものです。シングルハンドなんかは、その最たるものです。

元来、日本は社会協調性の高い国民性であり、集団的であり、戦後は、そこに欧米流の個人主義的文化が浸透してきたとは言え、やはり、まだ集団的協調性に共感する国民性は根強い様に思えます。ひょっとすると、本来、ヨット遊びは日本の国民性とは溶け合えない文化なのかもしれません。

遊びは個人の文化、何故なら、個人の価値観を追求して楽しむものだから。もちろん、同じ価値観に共感する人達が集まる遊びがあり、そういうスタイルの遊びは広がり易い。でも、ヨットは個人が主体となって行動する。おまけに海という、陸上には無いリスクがあります。

それでも敢えてヨット遊びをする人達は、自己責任の取れる方々だという事になります。海に一旦出てしまえば、何があっても自分で対応しなければなりません。そういう覚悟ができている人達だと言えます。ヨット遊びは、そういう自己責任の覚悟のうえに成り立つ遊びだけに、誰でもできる遊びでは無いのかもしれません。多くの人達は、それを無意識的にも避けてしまうのかもしれません。知識や技術は重要だけれど、それ以外に、考えてみたら、ひやりと冷たい緊張感が根底に流れる。

そんな緊張感の流れるうえに成り立つセーリングは、それだけに陸上とは全く違うフィーリングを創り出す事になります。リスクを取り、それを超える。仕事でも無いのに、遊びなのに、それをやるというのは日本人らしからぬ冒険心の持ち主なのかもしれません。だから、動くヨットが少ないというのは解る様に気がします。クルーがたくさん居た頃は、まだ良かった、でも、クルーでは無くゲストなら、やはりオーナーに負担がのしかかる。そのリスクを取る覚悟を持っています。

その覚悟を持ち、腕を磨き、セーリングを味わう。それだけで素晴らしい。オーナーになるというのは簡単な事では無い。お金だけの問題ではありません。その覚悟を持った人だけが味わえる特別な世界だと思います。特別な存在なのです。

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