第七十四話 偶然の域


      

吹いたから良く走り、吹かなかったから走らなかった。そういうセーリングは少なく無いと思います。私も思い当たります。その日の風は偶然で、その日のセーリングを偶然任せで楽しむ。すると、面白さも偶然の域という事になります。求める良い風と自分の休みが重なる確率はどの程度なんだろう?偶然の風は仕方ないにしても、偶然の面白さを超えるにはどうしたら良いんだろう?

昔、釣りに夢中だった頃があり、それなりの事はするものの、今思えば偶然の域の釣りだった。たまたま釣れたし、たまたま釣れなかった。そこに必要だったのはもう一歩深く踏み出す事、考え、工夫する事だったのではないかと思います。そうすれば、釣りの本当の面白さが解ったかもしれない。でも、そこ迄至っていなかったので、そのうち何と無くやめてしまった。

世の中にはどのジャンルにしても詳しい人とそうで無い人が居て、その格差は広がっているのではないかと思います。本当の面白さは偶然の域に居たのでは解らない。ヨット減少の要因にはこういう事もあるのでは無かろうか?道具は進化して使い易くなってきた。それは一見ヨットの広がりを思わせるものの、ヨットが日常生活に役だつものでは無いだけに、簡単にセーリングできる事は良い事なんだけれど、本当の面白さを覆い隠してしまったと言え無くも無いと思います。

ヨットはある程度の技術や知識の習得という事が、ある意味自慢とか自信とか、そういうものを感じて、それが故にもっと求めたくなるという事は無いだろうか?理屈を考えて、こうしたらどうだろうかとかと試行錯誤する。そうしたら何らかの発見があったりもする。そこに面白さがあり、それがまた自信と自慢にもなるのでは無かろうか?

微軽風で走らないからコードゼロのセールを展開する。そうしたら走ります。それで試行錯誤を繰り返す。これである程度の微軽風を楽しむ事ができるようになり、こういう思考錯誤の意識が、さらに強風におけるセーリングをも試行錯誤を促していく。そうすると、様々な偶然の風を楽しむ事ができて、微軽風にも強風にも面白さを感じる事ができるようになるかもしれない。そうすると面白さも何倍にもなって、試行錯誤を続けると、さらに深くもなっていくのではなかろうか?偶然の風だけれど、セーリングはもはや偶然の域では無くなる。

そしてさらに、一日のセーリングが終わったら、週末で翌日が休みなら、その日は泊っても良い。みんなでヨット談義に花を咲かせて飲む。これはきっと楽しいです。或いは、泊まらないにしても、セーリングの終わりにコクピットでゆったりと寛ぎながらセーリングの余韻を楽しむ事もある。そそくさと家路につかなくても良いし、そういう楽しみ方をしないのは、むしろ勿体無いかもしれない。シングルでも同様で、家路につく前に、美味しいコーヒーの一杯でも、ゆっくり楽しんでは如何でしょうか? この完全リラックスはつい先ほど迄の緊張感を持つセーリングとのギャップで、何とも言えない気分になれる。これも含めてのヨットだと思います。

これ、実はあるニュージーランド人だったか、デイセーリングやピクニック等を楽しんだら、その日は皆で泊まるのが普通なんだそうです。その為にキャビンやコクピットがある。何故、日本ではみんな帰ってしまうんだ?明日は休みだろう?そんな事言ってました。だから、たまにでもそういう事をやってみると楽しいかもしれない。それがヨット仲間を増やす事になるかもしれない。そうしたらクルーならぬ、ヨット仲間ができる。このアフターセーリングが楽しみでセーリングやっても良い。でも、そのうち、一生懸命遊んだ方が、アフターもより楽しくなる事が解って来る。

ある特定の風だけを求めるのでは無く、微風の時も強風の時も、少しでもそれなりのセーリングを楽しめる様になった方が良い。そしてアフターセーリングも楽しむと尚良い。これで少しでもヨットを楽しむ人達が増えれば良い。 まずは、アフターセーリングの事から考えても良いんでは無いでしょうか?

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