第九十四話 ヨットは遅い

ヨットの世界で10ノットと言えばかなり速い。でも、たったわずか時速18kmにしか過ぎません。
このスピード時代においては、のんびりしたもんです。それでも、この10ノットに達するのはなか
なかできません。殆どはこのスピードには達し得ない。10ノットどころの話では無い、もっと下の
レベルです。ぼ〜っとしてたら、1,2ノットなんてすぐに落ちてしまう。こんなレベルで走っている
んですね。でも、体感スピードはあります。スリルもある。何故でしょう。あれだけでかい物が、
わずか時速10数キロで走る。1ノットスピードをあげるのも大変です。でも1ノットスピードが上が
ると、スピード感はぐんと増す。人間の感覚とは不思議な物です。モーターボートではあっという間
に30ノットを越す。そのくらい出ないとスピード感はあまりない。車なら100キロ出ても、そう速さ
感じはしない。普通なら、ヨットなんてのんびりした物がエキサイティングであるはずは無いんです。

ところが、どうしたことかスリル満点、人間の感覚はとても不思議ですね。こんなに遅いヨットにスピ
ード感を感じる理屈は解りませんが、少なくとも、人間の感覚はヨットであるというだけで非常に敏感
になっているのではないでしょうか。時速150Kで車を飛ばして、速さを感じる。その10分の1の速さ
で速さを感じる。車より10倍、感覚が鋭くなっているのではないでしょうか。

人間の感覚をいとも簡単に10倍も鋭くさせるなんて物は他には無い。だから、微妙な音、振動、そう
いう物にも感覚が鋭くなって、その変化が感じられる。陸上生活は便利なものですが、便利になれば
なるほど、感覚は鈍る。そういう中で、遅いヨットに乗れば、10倍楽しめるのです。自分の感覚が10
倍鋭くなったら、どうでしょう。もちろん、日常生活はできないかもしれない、神経が参ってしまうかも
しれません。でも、10倍鋭かったら、別の世界が見えてくる。ほんの少しの間だけ、ある一定の事だけ
に10倍の鋭い感覚持ち得たら、すごい世界が見えてくる。音に敏感だったり、匂いに敏感だったり、
触覚、視覚、人間の持つ感覚機能が10倍になるなんてのは、通常は考えられない。

でも、ヨットはいとも簡単にそういう世界に入れます。何トンという重量を風を受けて、セールの力だけで
走らせる。考えてみれば実にすごい事です。この先、ヨットがどんな風に変化していくかは解りませんが
少なくとも、基本的な要素は変わらないでしょう。風を受けて走る。それがヨットです。例えどんな変化を
したとしても、何かの動力が主体ならばヨットでは無くなるし、ヨットの魅力も無くなる。エンジンで走って
いたのではヨットでは無くなる。セールで走ってこそヨットであり、セーリングしているから10倍感覚が
鋭くなるというものです。

この10倍鋭くなった感覚を、自分でコントロールして楽しむのがヨットです。走り方によって、10倍が20
倍になるかもしれませんし、逆に5倍になるかもしれない。でも、いずれにしろ、普通よりは鋭い。スピー
ドを楽しむというより、スピードで得た自分の感覚を楽しむのですから、感覚は元々自分の中にあり、そ
れを引き出す手段としてヨットを使う。いろんな遊びがあり、いろんな乗り物がある。その中で他の何より
もいろんな感覚を味わえるのがヨットではないかと思います。のんびり感あり、スリルあり、恐怖あり、緊
張もあり、弛緩もあり、爽やかあり、感動あり、退屈あり、わずか数時間で全てを味わう事もあるのです。

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