第十一話 面白いか面白く無いか

様々な事を評するに、いろんな表現があります。上か下か、良いか悪いか、大きいか小さいか、速いか遅いか、全ては相対的であります。世界一周が上で日本一周が下という事は無いし、大きい物は小さい物との比較に過ぎない。100フィートは120フィートよりも小さい。速いヨットは遅いヨットより速いに過ぎない。全てはそれに対する存在があって成り立つ事になります。

ならば、全ては面白いか、面白く無いかで判断するのが良い。自分が面白いと思えば、何だって良い事になります。面白いからする。面白く無い事はしない。これはそれぞれの判断の違い、感覚の違いがありますから、自分の基準で良いわけです。他人がとやかく言える筋合いでは無い事になります。遊びは面白いからするのであって、面白く無い事を延々続ける事は苦痛であります。

あらゆる文明の機器を設置して楽しむ人もあれば、一切の便利を排除して、自分でいちいち動かす事を楽しむ人も居ます。考えてみれば、どっちでも良い。自分の好きな方にすれば良い。やってる間に、面白さが減少したら、また面白い事を考えて実行すれば良いだけの事です。

いかにキャビンで面白くするかを考える人が居て、それが面白ければ良いし、セーリングして面白ければそうすれば良い。遠くへ行くのが好きな人はそうすれば良いし、乗らないにしても所有しているだけで楽しい人はそれで良い。眺めるのが好きな人、いろいろ扱うのが好きな人、寝泊りするのが好きな人、それぞれで良い。重要な事は、本当に今している事が面白いかどうかではないかと思います。

みんなで乗るのも面白いし、たまに宴会するのも楽しい。シングルでセーリングするのも面白い。他人と同じ事が面白いわけではありませんし、それぞれが自分の面白さを演出しなければ、遊ぶ事はできません。遊んだふりをしているに過ぎない。やってみないと解らないなら、片っ端からやってみる事です。

私はセーリングが最も面白いと思っていますから、これからも同様の主張を続けていきます。でも、他人の意見も私の意見も、ひとつの考え方に過ぎません。聞いても良いし、聞かなくても良い。最後は自己責任という奴です。たのしまなくては損です。

日本は和を持って尊しとなすという言葉があるように、協調性という言葉が昔から重んじられてきました。それで我々は単独行動は乱す行為として歓迎されませんでした。それに慣れてきたと言いますか、慣らされてきました。遊びに対してででも、罪悪感もあり、その遊びをする、おまけに他人と違う事をするというのはどうも苦手であります。でも、遊びは悪では無いし、むしろ、遊び無くしてはぶっ壊れてしまうし、遊びが創造性を高めます。それは遊びは本来自由だからです。自由だからこそ発想も自由になれる。まじめに考えても、ある前提を持って考えますからとっぴょうしも無い考えは出て来ない。自由に遊べると自由に、時にはとんでも無いかんがえも出ます。それだけ、自由は人の創造性を高める力があります。その自由は遊びの世界にある。面白がって何かをすると、面白いアイデアが生まれます。

ですから、自由に遊ぶ事は重要な事で、それには面白いと思う事をやる事だろうと思います。ところがこれがなかなか難しい。こうでなければならないと、無意識に思っています。それで頭を使わずに、感覚的に行動するのも良いかもしれません。遊ぶ時は感覚人間になりましょう。世の中は二種類の人間が居ます。楽しんでるか、楽しんでいないかです。

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