第五十二話 メインキャビンしか無いヨット

昔ですが、もう16〜17年ぐらい前でしょうか、あるイタリアの造船所に43フィートの、とっても美しいヨットがありました。そのヨットはハイパフォーマンスヨットのクルージング艇です。でも、不思議な事にそのヨットにはメインサロンしかなかった。前側は何もなしというか、荷物置きと言いますか、セールロッカーと言いますか、後部にはとってもシンプルなバース。それに反して、メインサロンはかなり作りこんであり、とっても美しいイタリアン家具、高級感溢れるヨットだった事を記憶しています。聞くところによると、それはオーナーからのオーダーで、今で言うならデイセーラーです。このオーナーが気軽なデイセーラーとして作らせたヨット、寝泊りしないから、前後にバースは不要、ただ、メインサロンだけは豪華に、という注文です。

当時、今のようなデイセーラーというジャンルは20フィート以下ぐらいの小さなヨットをさしていましたから、こんなサイズのヨットで、同じジャンル、これを意識はしていなかったと思いますが、とにかく、近所のセーリングを走り回る大型ヨットという考え方は珍しいものだったに違い無い。それを最初に見た時は、驚きでした。その美しさもさる事ながら、その考え方にです。でも、すぐに、これで良いなと思った記憶もあります。

仮にどこかに遠出するにしても、夜はどこかの港に入る。そうすると、ヨットに泊まらず、ホテルに泊まるので、ベッドは不要だとの事。それより、前後のキャビンは考えなくても良いので、広いメインサロンのみで充分だそうだ。なる程、そういう考え方もあるのか、と思った次第です。前後が無いので、その分前後が軽い。ピッチングに対しての影響が軽減される。重心も低かった。考え方はりっぱなデイセーラーでした。もちろん、艤装はセルフタッキングなどでは無く、通常のジェノアでしたが、さすがにイタリアらしく、デザインの施されたスプレッダー、ステアリングは今時珍しくもありませんが、ダブルスポークのおしゃれなステアリングでした。

今から思えば、ふたり居れば、充分にこのヨットをスポーツカー的に走らせて、クルージングまでも充分に楽しむ事ができる。1日のうち殆どはコクピットに出ているわけだし、食事は豪華なメインキャビンでしようと思えばできる。これに電動ウィンチなんかを装備すれば、楽勝です。ハルカラーはフェラーリレッド、コクピットには厚いチークがはってありました。奇をてらった風は無く、オーソドックスなかんじですが、イタリアらしい、とにかく美しいヨットでした。このオーナーは何と、アメリカズカップ挑戦艇のスポンサーが作らせたヨットでした。まあ、大金持ちですから、このヨットの他にも、ヨットを持っていたとは思いますが、考え方は完全なデイセーラーでした。

誰でも、中央にメインサロンを造って、前後にはキャビンを造りたくなる。でも、デイセーリングと割り切ってそうしなかったこの割り切りは、たいしたもんだと感心した次第です。結局は、誰かがそういうヨットも良いじゃないかという考え方があって、それが今のデイセーラーとして実を結んできたのかと思いますね。

クルージングといえば、のんびり旅をして、島々を回ったり、みんなで食事したり、寝泊りを楽しんだりと考えますが、別な所では、もっとセーリングを遊びたいという気持ちがあり、だからと言って、レースに明け暮れるのも好まない。レーサーじゃない、セダンじゃない、スポーツカーが好きだというような感覚ですね、セーリングが面白いという感覚は、ヨットですから当然あって良いわけで、それを今まではレーサーのものという片寄った考え方に支配されていたのかもしれません。常識のようなものだったかもしれません。でも、もっと自由に考えると、こんな考え方が出てきてもちっとも不思議じゃない。

今のデイセーラーはシングルハンド仕様をも意識した艤装になっていますが、何もシングルでなければならない事も無く、クルーが居るなら、まあ、それでも2,3人程度ぐらいまでで、自由自在に操船できるデイセーラーがあっても良いわけです。そういうヨットには、やはりハイパフォーマンスのスポーツ性を持ち、簡単操作で、ショートハンドで楽々、キャビンはメインキャビンさえあれば良いとも言えます。まあ、残念ながらそういうヨットはありませんが、スポーツ性の高いヨットを、そういう使い方しても良い。電動ウィンチなんか使って、楽にハイパフォーマンスを楽しむスポーツ/デイセーラーです。そういう意味ではイタリアのコマー社のヨットはそういう向きかと思います。

海外では、リッチな方があるアイデアを持って、デザイナーにこういうヨットを作りたいとか、依頼する。それが物によっては新しいコンセプトとしてプロダクション化されていく事があります。イタリアのブレンタデザインによるB38は、そういうケースのひとつです。元々はステラ44というヨットで、最初のデイセーラーを建造しました。海外では、リッチな方々が昔ながらのウッドボートを支えていますし、全く新しいコンセプトのヨットも生み出す原動力になっています。それで伝統も受け継がれながら、革新的な技術も生まれる。そこが日本とは違うところですね。

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