第七十五話 発見した事?

セーリング中に何を感じているかを意識するようになりますと、それがだんだん当たり前になります。最初は頭で乗る。でも慣れてくるに従って、感覚で乗るのと半々ぐらいになってくる。感覚を意識しだしますと、それがだんだん癖になり、セーリング以外でも、自分が今何を感じているかを意識するようになります。それがどうした?という事になります。

まだ明確には解りませんが、自分の心地良さに従ってやっているのか、或いはそれに反してでも、やらなければならないからやっているのかが、解ってきます。明確に解ってくる。そうしますと、それで何かが変わるわけではありませんが、嫌な事をしなくて良いようにはなりませんが、何か気持ちが整理されて通常よりも落ち着いてやれるような気がします。今までもそれは解っていたとは思いますが、それを意識する事でもっと明確に解る。何かを選択する時も、何が良いのかが解るような気がします。

もっともっと何か効用があるような気がしますが、まだまだ明確では無いので、ここでは書きませんが、セーリングから学ぶ事はたくさんあるような気がします。何故かと考えますと、一般の日常生活の中には無かった事、いつも何をしているか、成果はどうか、効率はどうか、勝つか負けるか、そういう事とは全く違う事で、新しい何かが生まれるのではないか?そしてセーリングには心地良さばかりか、必ず強風や時化や、突然の雨や、夕陽、虹、等々自然の変化がいろいろありますから、そこから感じる何かもいろいろ変化します。良い事ばかりじゃないという所にその良さがあるのかもしれません。セーリング中なら、そのまま受け入れるしか方法は無い。そこに他と違う効用があるような気がします。いろんな自然の変化に対して、いろんな感情が沸きおこる。いろんな感情を意識する。そこに何かがあるような気がします。

世界は自分の感覚を通して理解されます。世界はこの感覚無しには、無いのと同じです。他人はその自分の感覚で理解した世界で物を言う。感覚が違えば、世界も違ってくる。違う世界をもった同士が話をしても噛み合わない。しかし、噛み合わないという事が理解される事も重要ではないか。そして、自分の世界は他人の価値観で出来上がっているのか、自分独自の価値観なのかが意識される。その事によって自分の個性を意識するだろうし、そうする事によってもっと楽になれるのではないか、個性的に生きながら、楽でもある。だからと言って、普通です。普通なんですが、何か究極的には全てをゲームとしてみる事ができるようになるのではないか。良い事も悪い事も、辛さを感じながらも片方ではどうなるのか興味津々と言いますか、面白さを感じたり、何かそういう事になっていくような気がします。

たかがセーリングではありますが、セーリングは感覚遊びになりますと違う何かが生まれる。そんな気がする次第です。第一の効用は自分の感覚が解るという事ではないかと思います。それは進化だろうと思います。心の時代とはそういう事かもしれません。心にも進化が必要なのでしょう。何をしていても構わないが、常に何を感じているかを意識してみる。そこに今までは無かった何かを発見できるかもしれません。保証はしませんが。

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