第七十九話 力の軽減

ヨットには膨大な力がかかっています。その膨大な力に対抗し、操船する為に力を軽減する装置を作って、弱い力でも対抗できるようにしています。ブロックとロープを組み合わせたテークルもそうですし、ウィンチもドラムをはずして見れば、中にはいくつもの歯車が組み合わされ、力を軽減してくれます。

もっと力を軽減して、もう少し楽に引いたりするには、テークルを増やしてやればそうできる。反面、引くロープの長さはながくなりますが。また、大きなヨットではセールもでかいのでもっと大きな力が必要になる。そういう場合はテークルでも無理ならウィンチで引く。それでももっとというなら電動もある。油圧もある。考えてみますと、人間の小さな力で、大きなヨットを動かして、風の強大な力に対抗しているのですから、誰が考えたか知りませんが、たいしたもんです。ヨット操船できているだけでも、たいしたもんです。

それだけでもたいしたもんなのに、さらにセールのドラフトがどうこう、リーチの開き具合がどうこうと言うのですから、さらに、たいしたもんです。そのたいした人間がいろいろ考えて、最適なセールカーブと最適なアングルを見つけ出して、最適な走りをする。そんな腹の足しにもならないような事をするのは、世界広しと言えども人間だけですね。無駄な事に夢中になれるのが人間という事になります。

力の軽減は文明の利器ですが、やってるセーリングは文明の利器とも言えますが、現代の科学においては、もっと効率の良い物がある。つまりは、ヨットは文明の利器を使いながら、文明が便利という事なら、不便を味わって、面白がっている。それは何故か?ヨットは目的を持たないからではないでしょうか?便利は目的を持ちます。その目的に対して便利かどうかです。現代の文明は全てそれで成り立っている。でも、目的が無くなった時、便利もへったくれも無い。それは文明を味わっているのでは無く、便利を味わっているのでは無く、むしろ不便を遊んでいる。

つまりは、遊びは便利さの中には無く、不便の中にある事になります。遊びは達成では無く、ただ遊ぶです。その遊びは不便の中にある。不便さの中にこそ、心を打つ何かがあるのかもしれません。便利になればなるほど、生活は楽になりますが、面白さは無くなる。だから人は山に登ったり、川を下ったり、セーリングしたりしたくなる。

昔はおもちゃが無かったので、自分で作ったもんです。その作るというのも遊びでした。でも、今は何でもあるので便利にはなりましたが、遊びが少なくなった。本当の遊びが、想像しながら創造していくもんだとしたら、現代に遊びは殆ど無くなったのかもしれません。遊びが無いところには余裕が無い。だから、最近は社会が不安定なのかもしれません。社会が不安定なのは、心が不安定だからでしょう。それは遊びが無いからだと思います。遊びと言えば、便利な出来上がった遊びしかない。そこには想像も創造も無い。

それで、もうひとつ、今度はその便利さを上回る心の進化が求められる。その一見出来上がったように見える便利な遊びを、さらに想像して、創造すれば、もっと何か違うものが見えてくるのではないか。とすれば、現代の不安定はその心の進化が求められているのかもしれません。それで、楽しむには、物を越える想像と創造力が不可欠で、今あるヨットを越えなければなりません。そのヨットが便利であればある程、想像と創造力が必要になる。それなしでも遊べますが、いかにも充実感が伴わないので、長く続かない。面白く無いとすれば、それはヨットのせいでは無く、想像力の不足です。ヨットに負けています。ヨットに負けては面白くは無い。それで想像力を発揮するか、ヨットを不便にしていくかでしょう。その不便とはマニュアル化と小型化になるのかもしれません。或いは、セーリング自体の不便さを遊ぶかです。大きければ大きい程、便利であればある程、想像の力が必要になのではないか?

宴会をしたら楽しいですが、次の宴会ではもっと想像力を働かせて、演出しなかれば、楽しさは続かない。食事に出前を取ったら、次は自分達で作る。その次はもっと何か違う料理を作る。その次は......。それが無いと遊び性が薄れてきて、毎日の日常の何でも無い一日になる。自宅ではそれで良いのですが、遊びではそうも行かない。これはとっても難しい事かもしれません。かなりの想像力が要求されます。そして、想像力は遊びによって鍛えられるのではないか?

一方、セーリングはと言いますと、これが向こうが勝ってにいろんな条件を出してきますから、昔のおもちゃが無い時代に工夫しておもちゃを作ったのと同じで、割合簡単なのでしょはないでしょうか。だから、本当は宴会よりもセーリングの方が楽なのかもしれません。

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