第百話 究極的楽しみ方

楽しさを味わいたいので、どんな事をしたら楽しいかと考えます。しかし、それだけで楽しい事ばかりにはならないのが現実です。計画した日に雨が降る、寒すぎる、暑すぎる、風が強すぎる、弱すぎる、波が高い、誘った友人の都合が悪くなる、そんな偶然はたくさんあります。すると、今日は良い、普通、悪いと記録を取ったら、トータルではどうなるか?そんな事はした事もありませんが、思い通りにならない事も多いだろうと思います。

楽しかった時はそれで良し、それで思い通りにならなかった時が問題です。つまり臨機応変なる対応が左右する。違う楽しみに切り替える。そして、それもまた良しとしましょう。せっかく来たのだからと無理して事故に合う事もあります。無理は禁物、自然の流れに沿って、できる別の楽しみ方をする。どうしてもとは思わない。簡単な事です。しかし、これが実は簡単では無い。

楽しい事を計画するのが人間ですが、計画をするとその反対もある。それでは計画しない方が良いのかというと、そうもいきません。それで臨機応変という事になる。ここが微妙でもあります。世の中は人為的なものと偶発的なものとが絡み合う。どんなに綿密に調べて、計画しても、横から突然飛び出してくる偶発性は事前に知る事ができない。それをラッキー、アンラッキーと片付ける方法もありますが、それで一喜一憂してたら身が持たぬ。

一歩下がって、自分の計画した面白そうな事と自分が計画していない偶発性の両方を見る。自分の計画がうまくいくか、いかないか、考えてみれば、うまく行くのも行かないのも、見えない所で偶然の作用があるかもしれない。自分の考えた楽しそうな計画がうまく行くか、行かないかを見守ろうとする態度をも含めて楽しんでしまう事ができれば良い。それができれば良いのですが、少なくとも、遊びぐらいはそれぐらいの余裕がほしい。

今度の休みにセーリングを計画する。でも、冬の冷たい雨が降る。残念。偶然性がその計画を邪魔した事になる。そうか、神様が許してくれなかったか、仕方ない。また今度というぐらいの軽さを携える。自分の計画を楽しみ、偶然性さえ楽しむ事ができたら、これこそ究極的ではないかと思います。そうかと思うと、偶然誰かに合って、偶然誘って、偶然に最高のセーリングになるやもしれない。全てが人為的であるなら、綿密な計画と正確さによってはかなりの確立で成功するが、そんな事にはならない。ヨットなんてものは偶然の支配が大きい。今度ドームで野球を見に行こう。こんな事はかなりの確立で成功します。でも、100%ではない。今度、セーリングに行こうという計画の成功確立は、ぐんと下がる。また、計画した事が本当に楽しい結果になるかどうかも解らない。

ならば、計画しつつも、偶発性をもどうなるか楽しみだと思えないか?どうも無理がありそう?何も運を見る事でも無く、ただ流れを楽しんでしまう事はできないか?これができれば、究極的な楽しみ方になる。仕事をしていても、何をしていても、計画し、そこに偶然性がからんでくる。ならば、それさえも楽しむ事ができれば、きっと楽しくは無いかもしれないが、面白いと思える側面もあるかもしれません。そうできれば、案外、楽しい事が増えてくるような気がします。自分の計画と神様の計画を、どう絡むかを楽しんでしまう。うまく行かなかった時は、自分の計画を反省しても、今度はうまく行くとは限らない。なにしろ偶然の絡みですから。それで、今度、もう一度計画する。また、うまく行かないにしても、何故と問うて解る事でも無いかもしれない。でも、究極的に面白いと思えるようにするには、この偶然性を自分の側につけるしかない。それは偶然を楽しむ余裕を持つ事ではないかと思います。

世の中は人為と偶然という二つのレールがある。そのどちらが欠けても、事はうまく行かない。でも、我々が扱える事は人為のみですから、後は神頼み?それも良いかもしれませんが、どんな偶然性が重なるかと面白がって見守る事ができれば、これこそ究極の遊び方かもしれません。この偶然というのは、良く観察していると、波があるように見えます。悪い事が重なったり、良い事が連続したり、不思議なものです。それで、その偶然を観察しながら、調子の良い時、悪い時、普通の時と流れを観察してみる。そこに人為をどうやって重ねていくか?そんな風に見るのも、結構面白いかも?最後はなるようになる。

偶然を良いと悪いに分ける物は何か?そこには判断する自分が居る。つまり、自分が居るから、良いと悪いに分かれてしまう。もちろん、自分が居ないところに偶然は関係が無いわけですが、発生する偶然を良いと悪いに分けないようにすると、どうなるか?ただ、こういう偶然があったと意識するだけ。究極の遊びとは、こんな感じかもしれませんね。それじゃあ、楽しくない?否、出来事をスポット的には楽しめないかもしれませんが、ひょっとしたら、もっと長いスパンとして見ると、案外面白いかもしれません。或いは、スポットを楽しみ、流れを面白がる。

セーリングしていても、その最中の航程がうまく行くかどうかが解らない。その予期できない部分が面白いと思えれば良い。それも全部予期せぬ事ばかりでは困りますので、半分ぐらい。つまり、計画半分、予期せぬ事半分。その半分の為に計画をする。究極的な遊びとは、充分な準備の自分の計画と神様の計画の絡みを楽しむ事ができるかできないか、そんなところにあるような?

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