第七十三話 センス

センスの良い服とか、野球にセンスがあるとか言います。前話で、理屈を越えるものという事を書きましたが、それはセンスとも言えるかもしれません。何となく解っている。世の中は理論半分、センス半分ぐらいじゃないかと思います。しかし、世の中は理論だけで動こうとしています。ですから、窮屈になる。そんな事が昨今のいろんな事件が発生する原因かもしれません。つまり、理論で解る部分と解らない部分が半分づつある。社会は解らない部分はどうしようも無く、従って、理論偏重となる事は仕方が無い。よって、あとは個人が考える事。

仕事は誰でもしなくちゃいけません。が、しかし、生きていくにはセンスが必要だとすると、それは細かい分析などによって解るものでは無い。多分、それは遊びによって磨かれるのではないかと思います。。遊びは強制ではありませんので、個人の好みによって選択される。という事は少なからず、そこにセンスの持ち合わせがある事かと思います。つまり、興味ある遊びをする事によってセンスが磨かれる事になるのではないか。

ヨットは無駄なものと以前書きましたが、否、とっても有効である事になります。へたすると仕事するのと同じぐらい有効かもしれません。ただ目に見えないだけに、その価値を裏付ける事ができない分、遊びは下に見られます。しかし、我々が生きていくのに、理屈だけでは無い何か、偶然があるとしたら、それに対応できるのはセンスだけかもしれない。だとしたら、遊びはおおいに有効とみなす事ができます。ただ息抜きでは無く、ただリラックスするだけで無く、遊ぶ事によってセンスが磨かれる。俗に言う勘が働くようになるかもしれません。

ヨットに興味を持たれた方々は、ヨットに対するセンスがある。そのセンスをどんどん遊んで磨いた方が良い。楽しいし、それに勘も冴えてくる。それにはどうしたら良いか?センスの下地には理論がある。よって、最初は理論から入って、いろんな事を学び、いろんな体験を必要とする。セーリングの理論、技術を習得しながらセーリングして遊ぶ。すると体にも馴染んできますから、そうしたら理論から少しづつ離れて、感性を意識する。今何を感じているか。そうやってどんどん進んで、感性の割合を増やしていく。そうする事で感性が磨かれていくのではないか?磨くと言っても、感じる事を意識する事が多くなるという事です。

一般の生活の中で、我々はいろんな事を選択していますが、そういういろんな事を選択する中で、感じている事を意識していますと、選択する時に、感性が動きやすくなる。理屈だけで選ぶと失敗するかもしれない事が、本当は心の中で既に自分に合うかどうかが解っている。それが常日頃から意識していることで判り易くなるのではないか?例え、感じている事に反して選ぶ事もありますが、それが反している事が解って選ぶのと判らずに選ぶのとでも違う。

センスが磨かれてもプロセーラーになれるかどうかはわからない。これはセンスともうひとつ才能が必要になる。でも、センスが磨かれる事で、もっといろんな場面でそれが有効に自分の為に働くような感じがします。

遊びとは、本来、損得抜きで、夢中になって、心で遊ぶ。ですから楽しいし、面白いし、よって感性が磨かれるのではないかと思います。ただリラックスも良いですが、夢中になってセーリングするところに本当の遊びがあって、そうする事で、理屈を越えた偶然に対応できるセンスが磨かれていくのではないかと思います。

偶然と言えば、町で偶然に誰かと会うという事があります。数学的にその確率はというと、とんでも無く少ないのでしょうが、でも、合ってしまったものは仕方ない。偶然と呼びます。しかし、その偶然によって、おおいにその後が変化することもある。その偶然への対応は感性の具合ではないかと思います。そこで感性がうまく働くか、あるいは理論だけかによって変わる。それで、感性は自分の中から発せられるもので、理論は案外自分の外から持ってきたものではないか?するとどっちが正解かは言わずと知れた事。但し、言っておきますが、何の根拠もありませんのであしからず。
そう、センスに根拠は不要です。何となく感じるだけです。それが正しいかどうかも解りません。しかし、そこに心地良さを感じるなら少なくとも自分にとって正解だろうと思います。理論が不要なのでは無く、その上に感性を磨く。理論を磨いて、感性も磨く。後者には遊びが最適かと思います。

次へ            目次へ