第八十七話 実感する事

セーリングには理論があります。その理論を無視するわけにはいきませんが、理論ばかりが先行し捉われても、面白くありません。理論セーリング学なんて学問があるわけじゃないし。理屈はあくまで助けにはなりますが、目的ではありませんし。理屈を学んで、それを実行してみて、そこから得た実感こそが本物ではないかと思います。セーリングは遊びですから、理屈ではこうしたらもっとこうなるという事がある場合でも、面白いかどうかが判断基準になると思います。そういう意味では、実感する事こそが重要かと思います。

実際に実感しますと、理屈とは雲泥の差があります。人間には、わずかな変化でも感じられる繊細さを持っており、ヒールして感じる事、加速して感じる事、かすかな音さえも感じられます。全ての判断は最後はどう感じるかによってなされる。

どういう感じを得たいかというのもありますが、いろんな事をしてどういう感じになるか?それを楽しむ方法もある。セーリングは感じる事を重んじる遊び方ではないかと思います。単純に良いか悪いかという分け方では無く、もっと複雑です。この際、快走だけを目指すのでは無く、どんな感じを得られるかを遊んではどうでしょう?

大きくヒールしたら、初めての時は恐怖を感じます。しかし、安全である事が解ったら、そのヒールを楽しむ事もできます。安全である事が確保されて、はじめて人は恐怖を遊びに変える事ができる。安全は艇の性能にもよりますし、自分の腕にもよります。という事は、艇は変えられないかもしれませんが、腕は上達する事ができますので、少しづつ上達する事で、安全を確保し、遊びの範囲を広げる事ができる。そうすれば、ちょっと風が強くなっても、遊ぶ事ができます。緊張感を遊ぶ事ができます。その範囲はそれぞれによる事になります。

どんな走りをしたかよりも、その時どんな感じを得たかに重点を置いて、いろんな感じを実感として味わって頂きたいと思います。それには、自分の感じを常に意識しなくてはなりません。すると、理屈を考えている時間は少なくなり、感じるセンサーが敏感になり、時々、頭脳が動いて調整し、また感じるセンサーが動き出す。人間は感じる動物だと思いますね。その、いろんな感じを味わう。ただ、それだけでも価値があると思います。微妙な感じの違いは、言葉では表せない。その感じを乗る度に納めていく。

良いか悪いか、楽しいか楽しくないか、この二極化はまだまだ低次元で、その中にもいろんな感じがありますから、それらをそのまま感じていく。ちょっとした操作で、加速感をわずかでも感じたら、それだけでも、面白さを感じます。事実がどうであれ、感じない事には意味は無い。感じて、それを増幅させられれば、遊びはもっと幅が広がるのではないかと思います。

実に抽象的な言い方ですが、セーリングを遊ぶというのは、明白な目的、勝つ事や旅の目的地に相当するものがありませんので、曖昧になりがちですが、この感じを目的としてセーリングしてみるという手もあるのではないかと思います。服を着ますと、防寒とかいう以外に、着心地が良いとか、肌さわりが良いとか感じます。動きやすさもあるでしょう。そういう感じと同じではないかと思います。美しさもありますし、舵を切る時の感じ、シートを引く、出す、そういう時の感じ、動きの感じ、波当たりの感じ、俊敏な感じ、鈍な感じ、今日は、どんな感じを得られるだろうか?

結局、理屈はありますが、最後は感じる事が全てではないかと思います。そう思いますと、ヨットによって、この感じは千差万別である事がわかります。ちょっとした設計の違い、作り方の違いでしょうが、感じを主体にしたら、随分違う。様々な状況がありますから、このバリエーションは無限にある。

どういうわけか、ヨットで出ますと、陸上での事を忘れてしまい、セーリングに没頭する事ができます。集中すればするほど、感覚センサーは鋭くなる。その感じを遊んでみようというのが、セーリングなのではないかと思います。お茶して寛ぐ感じも良いですが、お茶だけなら、他でもできます。でも、このセーリングの感じを得た後でのお茶は、格別かと思いますね。

人はセーリングが目的で生きてるわけじゃないし、仕事する為に生きているわけでも無い。お茶するのと同じで、いかにそのお茶がおいしくなるか、その為には、お茶するだけでは面白く無い。いろんな感じを得たからこそ、お茶がおいしくなるのではないかと思います。人は速いか遅いか、大きいか小さいかと考えますが、どんな感じがするだろうか、という視点も持っても良いのではないかと思います。

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