第三十九話 ヨットと家

ヨットにはキャビンがある。だから家と錯覚してしまう。家なら、快適にしなくちゃと思います。ですから、装備とかを家感覚で考えます。家は寛ぎの場ですから、当然であります。

しかし、一歩デッキに出ますと、そこは家ではありません。動く乗り物であります。動く乗り物は寛ぎの場というよりスポーツの場、キャビンは静で、デッキは動、相反するものです。

ひとつの物に静と動が同居するわけですから、これはなかなか難しい。あっちを立てれば、こっちが立たず、静は動を阻害し、動は静を阻害します。動と静が同時に調和するという事は無い。いくら充実した快適キャビンでも、走っている時は、キャビンが斜めになったりするわけで、デッキに居たら、快適でもキャビンに居たら快適ではありません。

では、走っている時は、人は動になり、止まれば、静になれば良いと思いますが、どうも人はそう簡単では無いような気がします。動の人は静が、静の人は動が、性分に合わない。それで、せっかく大きな快適キャビンがあっても、そこでゆったり時間を過ごすという事をしないし、静の人は、あまりセーリングをしようとはしない。性分と相反する事は、そこそこで良いとなります。

ところがです。キャビンは目で見て解るし、その快適さ加減も家を基準に考えますから、既に分かっている。理解しやすいわけです。でも、セーリングとなりますと、目で見て解らないし、経験も無いなら、なおさら解らない。解らない事には、なかなか進みにくいのが正直なところでしょう。ですから、セーリング方向にはなかなか向かわない。だから、ヨットはキャビン重視になりやすい。
本当は、乗れば乗るほどに、セーリング方向に行くようになるのではないかと思います。乗らないからそうはならない。乗れば、だんだん解ってきます。今まで目に見えなかったセーリングというものの感覚が解ってきます。解ってくれば、そちらに進む事ができる。

散々、これまでに動かないヨットについて書いてきましたが、要は動かないから解らない。解らない方向には進めない。それで、キャビンはセーリングに反して良く使われているかと言いますと、これもそうでは無いようです。寛ぎなら家の方が快適ですから。

という事は、キャビンはセーリングあってのキャビンであって、キャビンだけでは単独では成立しにくい。セーリングが先にあって、動があって、その合間にキャビンが入ってきて、それでようやく両方が生きる。キャビンはセーリングなしでは存在できないのかもしれません。動である船体が無い
とその中にあるキャビンは存在できません。逆に、キャビンが無くても動は成立します。

それで、セーリングはどうかと言いますと、明確な動であれば、セーリングだけでも楽しむ事ができます。寛ぎは外でも家でも良いわけです。ただ、無しも寂しいので、やっぱりほしい。セーリングはこの程度でも成立します。

そう考えますと、これまで、あまりにもキャビン重視になりすぎたのではないかと思います。使わないキャビンを重視してきたのも不思議ですが、使わないからそのまま来たともいえます。それで、今後のヨットの在り方を考えますと、根本に戻って、セーリングを見直すところから始まる。

セーリングはレーサーとしてのセーリングと、クルージング派が楽しむ事ができるスポーツとしてのセーリングがあり、スポーツする事によって、キャビンも生きるのではないかと思います。キャビンが生きたら、そこでまたキャビン重視になってしまうと、戻ってしまう?否、既にセーリングを味わってからのキャビンの使い方として見ますから、どの程度のキャビンであれば充分であるかが解っていると思います。静と動のバランスがどの程度必要かが、解っている。

キャビンは住まいに近い。という事は、もっとキャビンを重視するのは、旅、それも長い旅を想定すると場合かと思います。旅が長いと、それは住まいに近くなる。デイセーリングから、近場へのショートクルージングなら、キャビンはそれ程重要では無いような気がしますが、いかがでしょうか?だいたい、ヨットやろうか、なんていう方々はアウトドア派でしょうから、そういう方々が、じっとしてキャビンに留まる事自体が難しい。そういう方が使うのは、寝泊りの寛ぎになるのではないでしょうか?寝泊りをしない、或いは、滅多にしない、たまにしかしないのであれば、キャビン重視よりも、セーリング重視ではないかと思うのですが。

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