第八十七話 二つの世界

ひとつの世界はアクションを起こす世界。ああしたい、こうしたい。好きな事をしたいと思います。そこには、自分の意図したアクションと、偶然がおりなす世界があります。これがひとつの世界。もうひとつは、その世界を眺めるという自分の世界。

意図した事が全てであるなら、この世界はまだまだ単純かもしれません。しかしながら、各人が意図を持ち、それに偶然という力が加わって、実に不思議な世界を作り上げます。意図した通りになる事もあれば、意図とは全く違う方向に行く事もある。その度ごとに、一喜一憂するという方法もありますが、もし、もうひとつの眺める世界を持ちますと、まるでドラマを見るかのように、意図と偶然が織り成す世界を楽しむ事ができるかもしれません。

人の意図はそれぞれ異なるにしても、同じ人間が思う事ですから、そう大きくは違わないわけですが、偶然というものはとらえどころが無い。いつ、どのタイミングで、何が起こるのかは誰にも解らない。たまたま乗り合わせた電車とかバスとか、知らない同士が、それぞれの生活をしていながら、同じタイミングで、同じ電車の同じ車両に乗りあわせる。どおって事は無い話ですが、そこにもうひとつ事件が起きますと、さらに偶然の不思議さがクローズアップされます。偶然はいつもあって、何らかのきっかけをいつも創っているのかもしれません。たまたまです。そのたまたまが、大きく物事を左右する。

ひとつの意図があるだけでは何も起こらない。ふたつの意図があって、それが互いに出会うという偶然があって始めて何かが起こる。意図は大きなウェイトを占めますが、ひょっとしたら、偶然がもたらすタイミングとかの方が重要な役割をしているのかもしれません。だから、運勢とか、そういうものがいつの時代もなくならないのかもしれません。できれば、良い偶然を得たいと思いますが、それがどうにかなるものでも無い。そこには、黙って従うしか方法は無い。

でも、不思議なもので、つきというのが確かにあります。流れと言いますか、ついてる時はうまく行くし、つかない時は駄目。どちらにも意図はちゃんとあるし、その意図の完全度合いにのみ左右されるわけでもありません。このつきをうまく利用しないと、この偶然をうまく利用しないと、なかなか物事がうまく運びません。

偶然がもたらす世界は摩訶不思議です。偶然がもたらす絶妙のタイミングは不思議としか良いようが無い。不思議な事は面白いもんです。昔、こういう事がありました。あるお客様をイタリアのボートショーにご案内致しました。人数の関係で二台のタクシーに分乗し、ホテルに向かった。こちらが先に出たので、ある程度の距離を走った後、少し待つ事にしました。でも、なかなか来られません。それで、またタクシーに乗ろうとした時、たまたま、公衆電話が目についたので、予約したホテルに電話を入れた所、たった今、ホテルに日本人が来たが、予約が無いと断って、丁度ホテルを出て行ったところでした。もちろん、予約は入っていたのですが。この絶妙なタイミングで、お客様が路頭に迷う事を防ぐ事ができました。偶然は有難いものであり、恐ろしいものでもある。たまたま、と簡単に言いながら、もたらされる影響の大きさに畏敬の念を抱かずにはおれません。

どうあがいても、世界はこうなっています。この世界にどっぷりつかって一喜一憂するのも手だし、或いは、もうひとつの世界を持って、この世界を眺めながら、どうなるのかを楽しんでしまう事も不可能では無いような気がします。意図と偶然のドラマを眺めて、楽しんでしまう。これこそ究極の人生の楽しみ方ではないか?

ヨットを始める自分、いろんな体験をする自分、意図した事がどうなっていくかを、別の世界から眺めて楽しむ。すると、流れというのが感じられます。ついてる流れ、つかない流れ、眺めているとそういう事が解ってくる。どっぷりつかっていたのでは解らない。うまくなっていく自分、つらい目に合った自分、それでも、眺める自分がいれば冷静に対応できるかもしれません。考えようによっては、実体験によるドラマですから、へたな映画よりも面白いかもしれません。ハラハラ、ドキドキ、でも、眺める自分はそれを見て楽しめる?

意図の無いとこには偶然も無い。意図があるからこそ偶然がある。意図が無ければ、それはただ過ぎるだけです。偶然と意識する事も無いでしょう。つまりは、偶然は我々の意図が無ければならないが、その意図を超えてもいる。どんなに意図を完璧にしようが、偶然はいつも意図を超えます。その偶然はどうしようも無いわけですから、ならば、どんな偶然が来るのか、楽しんでしまうしか無い。それで、理想的には、ひょっとしたら、眺めていたら、どんなタイミングでどんな意図を持てば良いのかが解るようになるのではないか?という事です。もちろん、? ですが。でも、少なくとも、流れは感じられます。

デイセーリングを推進していくのは、私の意図です。これがどういう偶然をもたらすか?果たして、うまく浸透していくのか?そんな事を心配しても何の役にも立たない。偶然にもそういう経験をして、偶然にもデイセーリングが気に入って、偶然にもアメリカのアレリオンを発見した。全部偶然ですから、そういう流れなのだろうと思います。この先はまた解りませんが、少なくとも、そういうドラマを眺めて楽しんでしまう、面白がる。意図は無ければなりませんが、偶然の力の方が大きい。ならば、そこに敬意を表しながら、眺めて楽しむのが良かろうと思います。ただ、ひとつ言える事は、偶然がもたらしたものを拒否できないという事ではないか、と思います。

最善の意図を持って、最善の偶然を期待します。しかし、結果は受け入れるしか方法は無い。この偶然の力は一体何なのか?いくら考えても解りません。解らない事は考えないで、ただ、黙って観察する方が良い。すると、偶然の一部でも垣間見えた時には、意図を絶妙のタイミングで修正できるかもしれません。それでも、結果はどうなるかは解らない。最後は、楽しんでしまう。眺めながら、ドラマを楽しんでしまう。それができれば、人生そのものを楽しめるのではないでしょうか?

ある人がヨットを始めようと意図します。どんなヨットが良いのか、誰かに聞いたりします。このままですと、選択の自由があるようで、実は、世間の選択と同じ事をするでしょう。偶然に出会った人に聞いた事と同じ事をするかもしれません。でも、それを眺める自分から見れば、また違う選択があるかもしれません。意図と偶然の両方が見えた方が、より良い選択が可能になるのではないかと思います。これこそが、本当の自由なる選択ではないでしょうか?

眺める目は自分と他人の意図を見て、そこに偶然に働く流れも見る。偶然が全くランダムに働くとしたら、意味が無いとしたら、人生をたいして真剣にとらえる意味さえも無い。でも、確かに、ついてるとか感じる事ありますよね。これって一体何でしょう?それで、まずは眺めるという事から始めます。

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