第七十九話 存在感

和をもって尊しとなす。という言葉が昔から日本にあります。日本文化を言い表した言葉ですね。個よりも協調を重んじる文化です。これが浸透しますと、個人が出しゃばるというのは好ましくない、謙虚さが美徳という事になります。

先日、アメリカ大統領の呼びかけで、核問題の会議が行われました。こういう世界的な会議が行われる度に、マスコミは日本の存在感の薄さ、その時の首相の影の薄さを報道します。昔から変わっていませんね。西洋文化は個人の主張を重んじる文化です。個人はいつも、自分は何者か、とセルフアイデンテイーなる言葉を言います。

結局、普段の生活において、和をもって尊しとなす国ですから、そういう生活が身にしみついて行動していますから、政治の世界においても、やはり同じで、意識しなくとも、自然にそういう態度になるのではなかろうか?よって、海外から見たら、確固たるセルフアイデンティティーなるものが見えないのではなかろうか?

平和であるうちは、和をもって尊しとなすですが、いざという時には、また違ってくるのが日本人です。日本にも戦国時代がありましたが、あの時代は、日本の歴史の中でも稀有の時代なのかもしれません。首相にリーダーシップを求める一方、強烈なリーダーシップを発揮すれば、それはそれでまた叩かれるのではなかろうか?かといって、国内は和を持って、海外には主張を、という両刀使いは、宮本武蔵では無いので、難しいのかもしれません。

さて、それはそれとして、ヨットを見ましても同じで、海外には強烈な個性を放つヨットがたくさん有ります。ここにも、その国の文化を感じるわけですが、日本では、そういうヨットは極めて少ない。それは、文化のなせる技ではなかろうか?新しいコンセプトのヨットが出てきた時、それを受け入れるようになる迄には、相当な期間を要します。そして、誰かがそれを採用した時から、ポツポツと増えだし、ある臨界点までいきますと、だれも違和感を感じなくなる。

アメリカなんかですと、一番に採用した者になりたがるが、日本は一番にはなりたくない。そういう文化の違いが有るような気がします。一番は目立つ。目立てば、批判も浴びるかもしれません。そういう意味では、日本は二番手文化なのかもしれません。強烈にアピールするよりも、周りから持ち上げられる方を好む、さりげなさを好む、謙虚な文化です。

という事で、ヨットはまだまだ新しい文化なのかもしれません。まだまだこれからの文化、ましてやデイセーラーなんかはもっとそういう傾向にある。ですから、まだこれからなんだと思うようにしています。強烈な個性と映った物が、さりげない個性に変わって映るには、時が必要なのかもしれません。存在感はさりげなく。

その代わり、大胆なデザインやこれまでに無かった機能、性能などよりも、詳細な質にこだわる。
ですから、日本製の質の高さは世界的に見ても高い水準にあります。我々国民全体がそうなのですから、経済も政治も、同じ日本人ですから、日本人の総意なのかもしれません。遊びも同様ですね。

不安定な時には、強烈な何かが求められる。しかし、その次は安定が求められる。時代によって変わる。出番が違う。存在感の感じ方が違う。



スイスでデビューした30フィートヨット。殆どはカーボンパイプで作られたハルの無いヨットです。
重量は150kg。トップスピード23ノットを記録したそうです。キールとラダーの下にT時型のウィングを持ち、写真のように浮き上がる。風が無い時は、パイプ部分は沈んでしまいます。ボートで引っ張って、沖へ出し、風を受けてスピードが出ると浮き上がる。こんなの考えて、造るんですから、
日本では造れないでしょうね。これも、彼らの主張だと思います。

セルフアイデンティーは他とは違う事をしたがる。日本でも他と同じでは嫌と感じますが、それが大胆な違いでは無く、さりげない違いでは無かろうか?デイセーラーが、さりげなさとして感じられるようになるまで、頑張っていこうと思いますが、そうなると、また他のさりげなさが必要になる。そんなもんですね。存在感をどこに求めるか?

結局は、物に求めるとキリが無い。最終的には、自分のスタイルにあるのかもしれません。存在感を求めた時点で、存在感を失い、自分のスタイルを求めた時点で、存在感を放つのではないかな〜と思ったり。やはり主がどこにあるのか、という事になりますね。

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