第六話 何を目指す?

誰もが、いつかはヨットをやめる時がきます。その時に残るのは記憶です。高い技術を獲得しても、いろんな所にクルージングに行ったとしても、最後に残るのは、いろんな場面とその時の感覚の記憶ではないでしょうか?つまり、どんな場面で、その時にどういう感覚を持ったかという印象?

生きているという事は、感覚を得ているという事でしょうから、たくさん生きるというのは、たくさんの感覚を得たという事になると思います。少ししか生きていないというのは、逆に、得た感覚が少ないという事になりますか。要は、スタートしてから、やめる時までの、進化の過程と、その進化においてできるだけたくさんの感覚、味わいを得る事が満足感を満たしてくれるのではないか?
たくさん行動して、たくさんの味わいを持つ。これしか無いように思えます。そして、その瞬間の感覚は、上手にやれたかどうか?

ヨットを手に入れ、マリーナに係留し、たくさんのお金を支払って、ただ所有だけの感覚しか無ければ、それは上手とは言えないでしょう。できるだけたくさん乗って、いろんな感覚を得て、それだけでもう成功かもしれません。そのうえ、どんどん上手になって、いろいろな事を上手に捌いていければ、もっと成功でしょう。それらの味わいが記憶されます。

何も良い感覚ばかりでは無く、いろいろあります。しかし、長いプロセスの中で、上手くなってきている事、それに応じて自分の感覚も変わっていく事、それには知識と技術を要しますが、でも、それらは、感覚を支える為の手段であり、最後は印象、味わいのみが獲得され、残るのではないでしょうか?より多くの味わいを得る為に、より知識と技術を要する。

すると、味わいこそが最も大事なのではないかと思います。という事は、その瞬間、瞬間にしっかり味わう事が重要になります。という事は、セーリングしながら、他の事を考えていたのでは、いけません。その瞬間の、その味わいに、しっかり集中して、しっかり味わう。それを長い事やって積み上げていく。それこそが、最後に残る満足感を満たしてくれるのではないかと思います。

面倒くさいな〜と思う事がしょっちゅうありますが、それはひょっとしたら、味わいというものを逃しているのかもしれません。否、面倒くさいという味わいを得ています。それがしょっちゅうなら、それがたくさん積み重なって記憶されます。いろんな事にトライして、いろんな味わいを持つなら、それも積み重なります。そういう時、やらない味わいよりも、例え、どんな味わいだろうが、行動して得た味わいの方が、記憶としては良いように思えます。

ですから、我々は、普段の行動、考え、感覚というものを、もっと意識して大事にした方が良いという事になります。何かを目指して、何かを獲得する。それも大事かもしれませんが、それ以上に、その瞬間の味わいこそが最後に残るのではないかと思います。

でも、何も目標が無いと張り合いがありませんから、目標というより、方向性を決める。セーリングなら、自由自在にセーリングができるようになるとか。セーリングのあらゆる面を知ってやろうとか、そうした中で、そのプロセスを大事にして、行動と考えと味わいを意識しながら、セーリングを続けていく。あ〜、面白かったと言えるように。

次から次にやってくる出来事に対して、どううまく捌いていけるか?目標が無くても、次から次に物事はやってきます。でも、それを捌く基準として、目標、方向性を持つ必要があるかもしれません。
それは何かを獲得する事というより、やっぱり方向性ですかね。方向性は永遠です。目標地点は獲得すれば終わりですが、方向性は終わりが無い。それでも、その時々に進化があありますから、達成感も得られます。

自由自在のセーリングという方向性を持って、瞬間の味わいを持ち、知識と技術を得て、進化して、また味わいを持つ。この繰り返しで、自由自在に近づく。そんなのはいかがでしょうか?そして、やめる時、ヨットや風や海に馴染んだ感触を得ている。その感覚というのは格別ではないかと想像します。

結局、ヨットだろうが、他の趣味だろうが、手段は違っても、やる事は味わいの多さ、味わいの記憶、音楽をやる人も、絵を描く人も、何かを残すというより、どんどんうまくなって、味わいの変化、進化を得て、その記憶だけが残るのではないでしょうか?それが大事なんだろうと思います。何を手段にするかは、人の好みですから、本当は問題じゃない。自分に合う物を手段として、たくさんの味わいを得る。みんな同じなんだろうと思います。だから、やらないよりやった方が良い。たとえ、得る感覚が好ましいものでは無かったとしても。やらない感覚より、やる感覚の方が良いのではないかと思います。

誰もが、どうせ、いつかはやめる時がきて、どうせいつかは終わりを迎える。だからこそ、ゲームとして遊ぶ事ができるのではないでしょうか?必至になる必要も無く、味わいを遊ぶ事ができるのではないでしょうか?

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