第七十五話 デイセーリングの意義

何も達成しない事。それがデイセーリングの意義です。どこかに行くわけでも無く、レースで優勝するでも無く、何も達成はしません。何かを達成したら、達成感が生まれる。達成感は喜びではありますが、その後はどうしましょう。達成感で一生過ごす事はできません。だから、また次を目指す。
それはそれで良い。

デイセーリングの意義は何も達成しない事。でも、その日のセーリングを目指す。良いセーリングになっても、退屈なセーリングになっても、いずれにしろ、それは変化のプロセスの一場面です。ですから、達成感は無い。しかし、長い経験から、積みあがっていくものはあります。簡単に言えば、ヨットが解ってきた。セーリングが解ってきた。それらは、達成感の喜びはありませんが、過去の経験は、現在の自分をより自由にします。

長いプロセスの間に何かを達成する事はある。でも、それとて、プロセスの一場面に過ぎない。その達成感が目標では無い。ですから、デイセーリングの意義は、達成を目指さない事。自由自在を目指すと言っても、どれが自由自在なのか、明確なものではありません。ただ、毎回、こうして、ああしての試行錯誤がある。そして、いつか、何となくうまくなったような気がします。それでも、達成感は無い。ただ、今のセーリングが違っているという事。

これは面白く無い事でしょうか?

達成感は無くても、日々のセーリング自体を楽しむ事ができます。いつも変化する変化を楽しむ事ができます。終わりの無いセーリングとも言えます。毎回、乗る度に状況は違います。その都度のセーリングを楽しみます。それだけでありますね。それが積み重なって、1年、2年、5年、10年とすぎます。注意していなければ、何も解らないかもしれません。たいしたセーリングじゃない思うかもしれません。でも、そうやって長い年月に積みあがったセーリングが確実にあります。

何も、その積み上げた何かを目標にしているわけでもありません。ただ、日々、その日のセーリングを観察し、工夫し、遊んでいるだけであります。でも、目標にしなくても、積み上がるものはあります。それはある時点で、達成するようなものでは無く、常に積みあがっていく、終わりのない何か?

そして、ある日ふっと気がつきます。より鋭い観察力、感知力、それに伴う操作。それらが総合したものが身につきます。どこかの時点でポンと身につくものでは無く、じわじわとゆっくり身に着く。それは一生ものであります。いつ、何歳になっても、セーリングさえすれば、それが自然に出てきます。一旦自転車に乗れるようになったら、その後、一生自転車にいつでも乗れる。そんなものかな。しかも、昔の感覚はすぐに蘇る。

デイセーリングとはそんなものではないでしょうか? 特別の何かがあって、目を見張るような何かを成し遂げる事でも無く、ただ内に積み重なるだけ。それも終わりなく。しかし、日々、気が付かないうちに何かが変わっています。このレベルまでうまくなったら、これができるようになるとか、そういうものでもありません。ただ積み重なるのみ。

でも、消える事の無い、記憶だけでも無い、内に残るエネルギーみたいなものが残ります。それがデイセーリングというものかもしれません。無駄のない身のこなしとか、難しい事をいとも簡単にこなすとか、冷静であり、集中力があり、観察力があり、感知力がある。目には見えない進化があります。そんなものが自然と身に着く。

そんなおじいさんとおばあさんが居ました。かつてならしたヨットマン。実に動きがスムースで、タックしても実に簡単に、ウィンチなんてちょいちょいで御終いです。実に見事。そんなセーリングを目指す。でも、ウィンチちょいちょいができるようになっても、達成感は無い。何故なら、これもプロセスの一部ですから。ただ、長いプロセスでの進化をトータルで感じる事ができます。

レースはトップを目指し、クルージングは旅先を目指す。デイセーリングは何も達成しません。でも、そういう乗り方も有って良いと思うのですが。

それは終わりのないクルージングの旅と同じかもしれません。何年にも渡って、世界を何周も回る人達が居ます。何も、何周回るぞという目標があるわけでは無く、年取って、動け無くなったら、国に帰りますという夫婦が居ました。それとちょっと似ているような気がします。目標があるわけでは無く、もちろん次の地点という目標はありますが、それが重要なのでは無く、プロセスを楽しみ、自然と積み重なる経験で、その度に違う何かを経験していきます。それがまた積み重なっていきます。プロセスを楽しむのであって、結果の達成感を求めているわけでは無い。そういうのもあって良いと思いますし、それがデイセーリングなんだろうと思います。

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