第七十四話 錯覚
テレビでたまに視覚の錯覚について紹介される事があります。そのように見える。見えると言っても、それは頭脳がそう見させている。そういう錯覚です。一枚の絵に、近くの人物と遠い電信柱が描かれているとすると、人物よりも、小さく描かれた電信柱の方が大きいと思います。自然な事です。でも、そのふたつは一枚の絵に書かれたものですから、絵の中では人物が遥かに大きい。でも、そうは見えない。 我々は、実際はどうかというより、この頭脳が作り出す錯覚でもって、調整しながら、だからこそ生活ができる。故にその逆もある。錯覚ですね。ヨットで8ノットスピードが出ても、10ノット出ても、車、ボート、自転車、そういうスピードからするとノロノロしたスピードです。しかし、何故か、スピード感があります。これは何故でしょうか? 何ノットのスピードが出ようが、本当はたいした事は無い。それより、感覚的にどう感じるかを遊ぶのがヨットかもしれません。スピード計は目安になりますが、感覚を遊ぶという事であれば、スピード計でどうこうというより、自分の感覚がどう変化しているかの方が重要かもしれません。 フリーボードの高い最近のヨットでは、同じスピードでもスピード感が薄れます。一方、フリーボードが低いヨットでは、スピード感がある。実際は同じスピードであってもです。どっちが面白いかと言いますと、それゃあスピード感のある方でしょう。フリーボードの高いヨットでは、もう1ノットでも速くならないと、同じ感覚にはならないかもしれません。 現実は何ノットであれ、我々が感覚を遊ぶ限り、脳が作り出す錯覚を遊ぶ限り、やはりセーリングにおいてはフリーボードが低い方が面白い。速いですかという質問には、何ノットの風で、どの角度で、何ノットのスピードで走ると言わざるを得ない。それが事実です。でも、それが速いかどうかは相対的ですし、感覚次第もあります。 つまり、我々は現実を見て行動しているようで、実は、錯覚を遊んでいる事になります。それで実際はこうなんですと言っても面白くありませんから、感覚という錯覚なら、それならその感覚を遊んでしまおう。錯覚でも何でも良い。感覚を遊ぼうという話です。 他人の感覚はどうであれ、自分の感覚はどうか?大きく感じたり、小さく感じたり、速さ、遅さを感じる。重い、軽い、感じは無限にあります。そういういろんな感じを遊ぶ。その相棒がヨットであり、海というフィールドで、それらの現実は、現実のままでは何でも無い。しかし、自分がある種の感じを持つ事で、認識されますから、その感じこそが遊びです。という事は、現実と同じように、自分の感覚を認識して、それを意識して遊ぶという事が面白さを創り出すのではないでしょうか? 風が強くなった。それに対応します。そこにスリルや恐怖を感じたら、そのフィーリングは現実では無く、錯覚です。何ノットという数値的な風速があるだけで、それがイコール恐怖では無い事になります。ただ、たまたま自分は恐怖感を感じたとするなら、その感じを認識しておく。そういう感じの味わいを意識しておく。でも、それが次に同じ状態になっても、同じ感覚にはならない。また違う感じを持ちます。 感覚は錯覚だとしても、自分のレベルで感じる事ですから、現実に無関係という事ではありませんから、その感じる事を認識すると、それが現実と自分の関係性を示すバロメーターでもあるような気がします。 初めてヨットに乗って、サイドデッキを海水が洗うぐらいヒールしてびっくりされる方もおられます。そのびっくり感覚は錯覚で、ある方は恐怖となり、またある方は、ヨットてのは、こんなにヒールしても大丈夫なんだと逆に安心される方もおられます。どちらも、自分の感覚を遊んでいます。でも、その後の考え方でその先の行動の仕方が変わります。 感覚を遊びますが、その後の考え方でその先が変わる。では、感覚は錯覚だと認識して、どうしたら良いかと考えた方が、その先は良いかもしれません。という事で、感覚を味わうだけでは無く、それを敢えて認識する事で、次の事をどうするかを意識的に判断できるようになるのではないか?その判断は冷静で、理論的で、それこそ現実的ではないかな?それこそ、適切な行動を取る手助けになるかな?感覚を遊び、楽しんで、面白がって、その上で、感覚を認識して、次に冷静な行動を取る。実は、そんな風に出来るのかなという疑問もありますが。 面白いとか、楽しいとか言うのは、現実よりも、自分がどう感じているかの方が重要という事になります。という事は、自分の感覚が鋭い方が面白いわけです。そして、感覚を遊び、楽しんで、行動する時は、現実を客観的に見て、そういう事になりますかね。 感覚無しには生きられない我々が、その感覚は錯覚ですとか言われると、戸惑います。しかし、だからこそ都合の良い時もあれば、悪い時もある。それをちゃんと認識できれば、いろんな操船も的確に行えるようになるのではないかと思うのですが? また、一方で、感覚は当てにならないと言われます。それは現実に即していないという事でしょうが、現実に対応する時は理論やデータ、数値、スピード計を使い、遊ぶ時は感覚を遊ぶ。レースは現実で競う事ですから、感覚よりもスピード計、セーリングを遊ぶなら感覚、クルージングで何時迄に到着したいというのは現実です。 現実と感覚の認識をちゃんと使い分けられれば良いのではないかと思います。我々は感覚に翻弄され、また感覚を楽しむ。現実は客観的な観察によって、理論的に判断される。理想かもしれませんが。 |