第六十二話 ヨットの魅力


      

珍しく若い人達がヨットを始めた。ヨット、スッゲー!セールで走るその魅力は合理的なマインドでは無く、もっと底にある人間の動物的とも言える感性に訴える。その琴線に触れた時、ヨットに対する見方が違ってくるのではなかろうか?

同じ海を走るにしてもボートとヨットでは全く趣が異なる。その違いをどう見るか?便利と合理性を基に考える限り、ヨットになる事は無い。そして、我々の陸上の世界はまさしく便利と合理性の進化でもある。つまり、その延長の中にある限り、ヨットの魅力は見えてこない?

昔々、子供の頃、いかだを造って遊んだ。理屈もへったくれも、合理性も無い。子供は感性の生き物です。だから夢中になれた。遊びとは本来そういうものではなかろうか。ところが、大人になって理屈で遊ぶようになった。この理屈はセーリングの理屈では無く、便利と合理性の理屈です。そして、殆どの人達がそこから抜け出せないで居る。

多くの人達は遊んでいるつもりで、本当は遊べていないのかもしれない。しかし、ひとたびセーリングに完全に浸る事ができたら、頭脳は便利と合理性では無く遊びの道具として使う事ができるようになれる。そうしたら、頭脳を遊ぶ事ができるし、もちろん、感性は遊んでいます。感じるセーリングです。

ところが、大人が遊ぶって簡単じゃ無い。遊んでいるつもりかもしれない。もはやガキの様にはなれない。しかし、セーリングには、大人の頭脳を満足させる頭脳に対する刺激があり、心の奥底に潜む子供心を満足させる感性があると思います。頭脳と心を使って遊ぶ。それがヨットの魅力なのではなかろうか?

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