第46話 楽しむという事

子供達はテレビゲームに夢中です。何がそんなに面白いんでしょうか。何が夢中にさせる
のでしょうか。スポーツもそうです。あんなしんどい思いをしながら、一生懸命やるんです。
怪我をする事もあるでしょう。ひどい場合は死ぬ事もあるかもしれないのです。それにも
かかわらず、多くの老若男女達はスポーツに夢中になるのです。

共通することがあります。どちらにも失敗と成功があるという事です。それで、もし、失敗が
無いとしたらどうでしょうか。ゲームをすると、誰でも、簡単にゴールにたどり着ける。その間
何の困難も無く、或いは困難があったとしても、100%突破できると解っていたとしたら。
スポーツをする場合でも、ボールを持った瞬間に敵がゴールへの道をあけてくれ、簡単にゴ
ールができるとしたら、敵が邪魔をしようとしても、100%その敵を突破してゴールする事が
できるとしたら?そんな物に夢中になれるでしょうか?そんな物はつまらない。面白くも何と
も無い退屈なだけです。

つまり、楽しむという事は困難があり、失敗があり、そして成功の可能性もある。その可能性
を求めて、プロセスを楽しんでいるのです。プロセスと言っても、ゴールという可能性、結果を
持っています。結果を求めてはいるが、スタートからいきなり結果では面白く無いのです。
結局、結果を求めてプロセスを経験している。結果が良かったからプロセスも楽しかったと
感じる。でも、結果だけでは満足できない。でも、プロセスは長期に渡り、結果は瞬間に過ぎ
ない。突き詰めて行くと、プロセスを楽しんでいるのではないでしょうか。映画の主人公があら
ゆる困難に打ち勝ち、成功する様を見て感動するのです。と言う事は誰でも、困難に打ち勝ち
勝利する事が感動を呼ぶと知っているわけです。

セーリングをしていると、時化にもあえば、大雨にも降られ、暑くて、寒くてたまらない事もある。
しかし、それがあるからこそ、最高の時はよりしびれるような感動を生むわけです。無難という
やり方もある。それはそれでひとつの選択です。しかし、本当に楽しむには、良い事ばかりでは
無く、悪い事も受け入れなければなりません。ひとつひとつを見ると楽しかったり、苦しかったり
の繰り返しになりますが、もっと大きな目で見ると、ゲームである事がわかります。セーリング
はゲームです。ゲームを楽しむにはゲームに参加することです。参加するといろんな事がある。
だからこそ、セーリングを楽しむ事ができる。楽しむにはゲームで起こるあらゆる事を受け入れる
必要がある。どの程度受け入れるかが、自分が、である事に繋がると思うのです。受け入れる
度合いの大きさでゲームは楽しくもなるし、つまらなくなることもある。何かである事はどれだけ
の事を受け入れられるかという事だと思います。

何も進んで時化の中を出る必要は無い。しかし、たまたま出会えば仕方無い。後悔するより、ど
ううまくこのゲームを処理するかに対応した方が良い。できればこれさえも楽しめれば最高です。
大きな目で見るという事はそういう事です。ヨットをつまらなくしているのは自分です。ヨットを退屈
な乗り物にしているは自分です。ヨットはつまらない物でも、退屈な物でも、反対にエキサイティン
グな物でも無い。私が退屈なものだし、私がつまらないものだし、私がエキサイティングなもので
す。全ては私次第。前に世界は私だけの為にあると書きました。この世界は私がである事と同じ
なのだなと思いました。

こう思うと気が楽になりませんか?楽しめるようになりませんか?全ては楽しむ事のプロセスであ
ると思えます。自分さえその気になれば、楽しむ事ができる。何でも楽しくなる。ヨットを置きざり
にしておくのはゲームを放棄していることです。放棄した者には何ももたらされない。参加する事に
よってのみ楽しむ事ができる。そう感じた日でした。どうか皆さん、参加して下さい。

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