第九話 セーリングの力(マニアックな話)


      

 
しびれる様なフィーリングはどこから来るのか?快走は何度も味わったが、しびれる程では無かった。さらに、強風のさらなるハイスピードも、緊張感の高まりは味わったものの、しびれる様な感じでは無かった。あの感覚はどうやって生まれたのだろう。

ある時、たいして快走とも言えないスピードだった。しかし、あの時はいつも以上にセーリングに専念し、頭も感覚も完全にセーリングと共にあったのだろう。ピッタリくっついていたのかもしれない。そんな時、何かの拍子にふっと考える事が停止して、完全な受け身状態、感覚だけの状態になった様な気がします。それは無の状態だったのかもしれません。

ふっと我に返った時、何とも言えない、それまでとは全く異なる次元の感覚に気付き、その余韻にも、何とも言い表し難いフィーリングが残っていた。恐らく、完全受け身の状態は僅かな時間だったかもしれない。どれだけの時間が過ぎたのかも分からない。しかし、敢えて言葉にするなら、しびれたな〜という感じだった。有難いとさえ思った。

意図してこんなフィーリングになれるわけも無く、セーリングにピッタリと意識も心も共にある時、突然やってくる至高のフィーリング、快走しているかどうかが問題では無く、どれだけ自分自身がセーリングに専心しているかだろうと思います。

しびれる様な感覚はセーリングの至高の感覚、面白さを超えた感覚、但し、おまけみたいなもんでしょう。ならば、できるだけセーリングに専心して、いつかまたそのおまけを僅かでも味わってみたい。たとえ、それが来なかったとしても、専心できれば、それだけでも面白さは充分です。

セーリングの力は、我々を面白さやさらに無心の状態に迄導いてくれる力なのかもしれませんね。だから、セーリングはスピードだけじゃ無い事が解りました。むしろ、乗る側次第だという事も解りました。吹くも良し、吹かぬも良し。その日のセーリングにただ浸る。しかし、それができれば苦労は無い。でも、より自分のレベルを上げようとする行為が、そこへ導いてくれるのではないか?本当は上手い、下手なんか関係無く、専心できるかどうかの事だろうと思います。
   

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