第六十八話 快適症候群

いつからヨットは動かなくなってしまったんだろう。昔は結構動いていたと思うのですが、クルーもたくさん居たし、レースも盛んだったような気がします。

ところが、世間が豊かになり、大きなヨットになり、キャビンも豪華になり始めた頃から、動かないヨットが目立ち始めた。昔なら、クルーが俺にも乗せてくれとたくさん集まっても不思議じゃ無いのに、誰も来なくなる。

ジブファーラーはオプションだったのが、やがて標準になり、冷蔵庫が標準になり、温水が標準になり、プレッシャーウォーターが標準になり、どんどん豊かになっていった。それに反するかの如く、ヨットは動かなくなっていく。これは一体何故なんでしょうか?昔に比べれば、ヨットは快適になったのに、何故、乗らなくなってしまったのでしょうか?不思議でなりません。

快適になったのはヨットばかりではありません。家には全ての部屋にエアコンがついて、テレビがあって、自動車にも同じように装備されてきた。インターネットで世界中の情報が瞬時に解り、携帯電話とメールでいつでも誰とでも話ができる。こんな快適な世界は過去にはなかった。みんな幸せの絶頂期にある。これだけ世の中が便利で快適なのですから、みんなヨットなんか乗って快適に遊んでも良いんじゃないかと思うのですが,、現実はその逆です。犯罪は多発し、自殺者も多い。不思議ですね。

幸福感を感じて無いので、もっと快適さを求める。それが発展を促しているのかもしれません。そこの欲求に対して、誰かが考え、工夫を凝らす。そして考え付いた便利さを提供して、さらに世の中は快適になります。でも、ひょっとすると、快適さを享受する我々より、工夫を凝らした人の方が幸福感を得たかもしれない。でも、成功してたくさんのお金が入ると、また彼もより快適を求めて、物質で周りを囲んでしまう。彼が求めるヨットはでかくて、高級で、最新の機器が設置され、エアコンまで装備される。そんなヨットが既にあるが、これまた動かない。考えてみると、みんなの為により快適にする為に工夫を凝らしていた時期が最も幸福だったのではないか、そんな気もします。

時々、ヨットを購入しようと検討している時期が最も楽しかったという話を聞きます。そして手に入った途端に充足感は頂点に達し、その後、急カーブで減少していく。これは先進国に住む、豊かな国に住む我々の特徴ではないかと思います。誰でも幸福、ラッキー、良い事を望み、悪い事、不幸を嫌う。でも、それらは快適や便利では埋まらないという証拠でしょう。考えてみれば子供の頃は自分でおもちゃを造り、遊びを工夫したもんです。そんな遊びと今の遊び、何でも用意された遊びとどっちが面白いでしょうか?快適、便利は今の方でしょう。でも、どっちが面白かったか?

自分で遊ぶ為に考え、工夫する。遊びは何かを獲得しなければならない物では無く、ただ面白ければ良いわけです。そこに工夫するという態度は最高の面白さを与えてくれたのではないでしょうか。仕事と違って、結果を出さなければならないものでも無い。そこが遊びの真髄です。工夫はするが、結果を求めていない。これ以上の面白さは無い。世の中が便利になり楽になり、工夫しなくて良くなればなる程、面白くなくなる。快適ではあるが、面白くは無い。

昔は生きる為に工夫をした。便利ではなかったがそれなりに幸福感はあった。今はそんな工夫をしなくても快適に生きる事ができる。でも、何故か幸福感は無い。だから、もっと何かを求めて、自己実現などというセリフをはく。でも、そんな物はどこにも無い。まるで買えるが如く、見つけようとするから無い。それじゃ、どこにあるか?面白い事に工夫する事、工夫して面白がる事、ここにこそ幸福感、充足感があると思います。それはどこにでもある。

ヨットを遊ぶこつは工夫して面白がる事です。快適さも結構ですが、面白さに勝るものでは無いと思います。便利な世の中です。ヨットぐらいシンプルに、工夫して乗ってみるというのはいかがでしょうか?でも、ここが非常に難しい。便利さを求めるのは当たり前ですから、自然と求めてしまう。それが悪いわけでは無いのですが、やり過ぎると、知らない間に工夫をしなくなり、学ぶ事をしなくなる。それが面白くなくなるという方向に向かってしまう。便利と工夫のバランス、面白いという感覚が無くなると、動機が無くなる。

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