第一話 遊びの本質

遊びというのは、多様性があり、考えようによっては何でも遊びになる。遊びの達人は何でも遊びにしてしまう。楽しもうとする。しかし、本質的には何かと考えますと、それは多分、何も未来に結果を期待しない行為と言えるのではないかと思います。期待をしないから、その場を楽しむ事ができる。しかし、期待し始めた途端に、どの程度の成果が出るか心配になります。期待さえしなければ、何でも遊びになる。ゲームとして楽しむ事ができるのかもしれません。

そういう意味では、パチンコしたり、マージャンしたりというのは遊びのようで、本当は遊びにはなっていないのかもしれません。負ければストレスが溜まる。遊んでストレスが溜まるなんているのは、本来は可笑しいのではないでしょうか。但し、勝つという事にこだわらないのであれば、それはゲームかもしれません。仕事をすれば報酬を期待しますし、投資をすれば儲けが気になる。当たり前の事です。我々はいつも何かに期待しています。期待さえしなければ楽なのですが、それを遊ぶ事もできるのですが、そうは行きません。我々の仕事も趣味を兼ねて良いね、と言われますが、そうも行きません。何故なら、我々もヨットが売れる事を期待しているからです。

我々はいつも何かを期待しています。家族にも期待します。それが普通かと思います。期待せざるを得ない。ですから、期待にそぐわない事が起こると、がっかりしたり、怒ったり、泣いたり、期待通りか、それ以上だと嬉しいわけです。どちらにしろ、常にストレスが伴う事です。そこで、遊びというものが生まれました。それは何も成果を期待しないで良いことです。期待さえしなければ、どんな事でも遊びとして捉える事ができるのだろうと思います。期待さえしなければ、結果はどうでも良いわけですから、こんなに楽な事は無い。ストレスなんか溜まりようが無い。

ですから、遊びには何も将来に期待しないのが、最も遊びとして活用する事ができる。ヨットで遊んでも何にも期待はできません。それで良いんだと思います。それはうまくなるという事とは違います。期待はうまくなって、その結果何らかの期待をする事です。もし、ヨットでプロになろう、それで飯食えるようになりたいと思ったら、それは遊びでは無くなります。我々はそんな事は考えもしないので、ヨットは純粋に遊び足りえる。

セーリングして、それでどうにかなろうと思う事は無いわけですから、純粋に今の状況を遊ぶ事ができる。どんなにハッスルしても、どんなに動き回っても、肉体的疲労は高まるかもしれませんが、精神的には全く疲労する事は無いと思います。でも、レースに出て、もう少しスピードが出無いか?と期待した時、すれすれで負けた時、ストレスが溜まる。これは遊びの本質から少し外れて、楽しむという事から勝つという事への期待が大きいからでしょう。それはそれで、悪いわけじゃない。
ただ、遊びの本質として、遊ぶなら、何もストレスは溜まらないはずだと思います。

ただ、セーリングしてみましょう。ここには何もストレスが無い。こうやって、ああやって、いろいろ工夫したり学んだりする事はありますが、それらは将来に何かになろうという期待の為にするわけではありませんから、遊びとしての学びです。ですから、学ぶ事も遊べる。今の味わいを楽しむ事ができる。今を将来の為に使おうとすると、それは期待になります。ですから、今は今だけ。そう考えると、実に楽に遊ぶ事ができる。その最たるものは、セーリングです。

セーリングしての快走やスリルや、寒さや暑さもみんな遊びになる。遊びにはストレスが溜まらないどころか、既に溜まったストレスの除去にもなる。ただ、夢中になって、セーリングするだけで、エネルギーの補給にもなる。夢中に快を求めるだけで、いろんな感情を味わいますが、味わった後にストレスは残らない。そういう意味で、遊びはとっても大事な要素を持っています。

その遊びを増幅させるのが、工夫や想像力だろうと思います。遊びには想像力があった方が良い。完成品のおもちゃで遊ぶには想像力をあまり必要としませんが、未完成であれば、そこをどうにかしたいと思います。工夫します。想像します。それがまた遊びになるのではないかと思います。
第一完成品に魅力は無い。完成品に感心はしますが、面白味にかけている。遊びには工夫や想像があった方が面白いと思います。

昔、絵画の世界で、完璧に詳細まで描く画家が居たそうです。それは見事としか言い様が無く、まるで写真であるかのように描く。最初はみんな驚異の目で見たそうですが、すぐに飽きられた。未完成で、こうした方が良いんじゃないかと思わせるぐらいの方が飽きないそうです。それは人に想像を促す。それが面白い。

遊びは、期待しない事と、想像させる要素、このふたつが必要なのかもしれません。そうすれば完璧に遊べる。おっと、完璧じゃないですね、永遠に遊ぶ事ができる、です。多分。

セーリングには理論がありますが、それが全てでは無い。これが完璧に解って、誰でもその理論さえ習得すれば完璧なセーリングができるようになったら、セーリングはお終いです。それ以上の可能性は無くなる。ですが、幸い、セーリングは解らない事が多い。常に変化しています。ですから、人類が永遠に遊べる要素がそこにある。そこを遊ばないで、何を遊ぼうというのでしょうか?どんなに科学が発達しても、セーリングは完璧にはならない。何故なら、セーリングはフィーリングだからです。速いか遅いか、乗り心地はどうか、そういう事も人によって、その時の気分によっても変わる。セーリングはフィーリング!それ以上でも、以下でも無い。

遊びは未来に期待しない事、逆に、未来に期待しなければ、全てが遊びとして楽しむ事ができる。

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