第五十一話 セールフィーリングを取り戻す

我々はいつの間にかセーリングから来るフィーリングを失ってしまったのではないか。元々はセーリングして、そのフィーリングを味わうのがヨットだったのではないか。それが一部はレースに行き、その他はクルージングと分離して、特にクルージングでは近場の旅が中心となり、セーリングでは無く、エンジンで行くようになった。それではセーリングは殆どしない。セーリングをして、どんな感じを受けるか、そのバラエティー豊かなフィーリングは感じないで終わる。

原因はどこにあるかと言えば、キャビンと便利さに起因するのではないか。キャビンでのフィーリングは確かに得る。しかし、このフィーリングは家に居る快適さに近い。或いは、別荘を持ったような感覚でもある。だから、みんな快適キャビンを作る事に専念してしまう。快適さは、エアコンの効いた部屋のような快適さもあるが、もうひとつ予測できるという安心感もある。何時までに着くとか。これが予測できなくなると、これは不快に思う。何時に着くか解らない?

でも、自然に遊ぶというのは、予測が全くつかないでは困るが、かなりおおらかにならないと遊べない。そのうちというぐらい。それが時間に正確に動く世の中では、それがどうもしっくり来ないようになってしまった。そういう事にならされてしまった。だから遊べないのかも?もっといい加減なら、そのまま遊べるのかもしれない。計算できない面白さ、予測できない面白さ、そういうのもある。全てを予測して、思い通りには行かないのでストレスが溜まる。最初から予測できないと思えば、受け入れるしかない。しかし、感動は予測できないところに発生します。

でも、全く予測できないと不安で仕方ない事になりますので、半分ぐらいは予測できて、半分ぐらいは予測できないくらいが丁度良い。予測できる部分は、自分の技術、知識でまかなう。予測できない部分はそのまま受け入れる。これがヨットの遊び方。エンジンで走ってばかりでは、殆どが予測できるので、感動は無い。せいぜい予期せぬイルカやクジラと出合った時ぐらいか。

帆走すると、これは予測が難しくなります。何時に着くかという事ばかりでは無く、走ってどんな感じがするか、快か不快か、そんな要素がふんだんにあるのがセーリングです。でも、その半分は自分の知識と技術で操作ができるので、あらかたの予測はできる。これが安心感の部類です。その後半分はやってみないと解らない。どんな走り、どんな感じ?だから、予測もしなかった最高の快走に感動する事ができる。ヨットとはそういうもんかと思います。遊びとはそういうもんかと思います。全部予測できたら、面白くもなんとも無くなる。だから、キャビンだけを考えると面白く無くなるのでは?

人は予測はするが、その予測は想像できる範囲内に限られる。ですから、頭使って、何かを整えようとすると、予測できる事にしか対応ができない。それで予測できる事ばかりやりますと、楽しさはあっても、もっと突っ込んだ感動のような事は生まれない。そこで、予測できる手段で、予測できない事もやる。それが面白さを見つける方法かなと思います。

もちろん、どこにでもハプニングはあります。ですから、何をしても予測できない事が起こる事がある。そのハプニングをもう少し積極的に試みる、いわゆるプチ冒険によってなされる。起こるのでは無く、起こす。この事によってもう少し面白さが増えてくる。ハプニングは全く予想外、でもプチ冒険は半分ぐらいは予想内にある。

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