第六十四話 味わう遊び

我々の遊びは、いつの間にか多くが競争である事が多くなったような気がします。野球、ゴルフ、サッカー等々は全て試合形式で行われ、ゲームも勝つか負けるか、日本古来の武道は勝負もありますが、その前に礼を重んじるものであったが、最近ではそうでも無い。日本は自由な国になり、自由に競争する社会、つまり誰でも自由に競争して勝つ可能性を持つ社会です。これは大変良い事で、昔の身分が固定していた時代では考えられない事でもありました。

しかしながら、何事にも弊害はつきものであり、自由な競争社会は全ての人に可能性を与えたものの、同時に勝つ事に非常に執着するようになった。そして我々の存在は比較によってのみ確認ができるというものです。これらは現代の仕事において過激な競争を続け、その為にストレスが溜まる。そして本来、遊びはその癒しであるはずが、その遊びの世界においても同じように競争原理を働かせてきた。

弊害とは、そういう競争社会で生き延びる為に過激なストレスが溜まるという事です。そして、競争社会には優劣がつけられ、それが過激になると、もっと明確になる。誰でも、医者や弁護士になれる、大臣になれる可能性を持つ。しかし、みんながそうなっては困るわけです。あらゆる職業が混在してこそ社会は成り立つ。こんなところに、昨今の凶悪事件の根があるような気がします。

そういう社会に生きながら、昔ながらの日本の作法は忘れ去られ、勝つ事に専念してきた。作法は相手に対する思いやりだろうと思いますが、そういう競争社会には多くが忘れられてきました。
日本人には本来、わびさびの世界、粋という世界があった。それは勝つ事では無く、さりげなさ、目立たないが、隠れたところでの気遣い、それらは欧米人には理解できないでしょうが、それが粋であるとされた。そういう作法が日本人の心を癒してきたのかもしれません。

現代では、心を癒すのは遊びだと思います。それも競争の無い遊びです。それは行為から来る味わいです。社会では競争をし、そして遊びにおいては競争の無い味わいを重んじるのが良かろうと思うわけです。競争すれば勝ちたいと思うのが人情です。ですから競争をしないで、味わう。いろんな感情を味わう。

欧米人は狩猟民族ですから、勝負の世界です。しかし、日本人は農耕民族ですから、勝負だけでは身が持たない。否、昔、何百年も戦いの時代を経てきた。それを既に卒業してしまったのかもしれません。競争だけでは、もう既に卒業してしまった日本人には合わないのではないか?すると、競争では無い味わいが、特に遊びには必要なのかもしれません。その味わう事が、日本人の心を癒し、エネルギーを補給してくれるのかもしれません。粋とは遊び心かと思います。日本人的カッコ良さです。ただ、ただ、勝つ事だけでは粋では無いのです。

競争社会になっている現実は、それとして、遊びの世界では味わいの世界を持つ。これが日本人には合うのではないか、必要なのではないかと思います。そこで、ヨットです。セーリングの味わいを持つ。セーリングしてどんな感情を得たかを味わう。たいそうな事を言わず、さりげなく、粋に、ヨットを出して、味わってくる。そういう勝負を離れた味わいに重きをなすと、何かが変わるような気がします。目立たぬように、それでいて美しいヨット、特別に飾り立てたヨットでは無く、そして、スーっと出して、その日のセーリングを味わってくる。そんな乗り方もあって良いような。否、現代だからこそ、日本人だからこそ、そういう味わい的な遊びが必要ではないか?

ヨットレースも良い。でも勝負だけにこだわるのはどうか?クルージングも良い、でも、人より遠くという事だけににこだわるのはどうか?日本人的粋な遊び。それは味わう事の中にあるような気がします。そこからスタートする。すると、何が変わるのか?解りません。でも、競争に勝つ事だけが全てでは無いと解る。勝つ事の喜びとは異なる、別の喜びがある事が解る。すると、心にゆとりが生まれ、エネルギーが生まれる。寛大にもなる。それは競争社会で生きるエネルギーとしても使う事ができるのではないでしょうか。

つまり、競争社会は自由にはつきものかもしれません。それを生き抜くのも大切です。しかし、同時に味わいの世界も携える事ができれば、日本人は国際人になれる。今、世界はそういう時代にはいってきたのかもしれません。環境問題は競争一辺倒では無理がある事を示唆しているような。右から左に物を動かすのは欧米式のやり方かもしれませんが、日本人としては、味わいという感覚から入っていく。それは根本からの見直しを示唆するのではないかと思います。

話がたいそうになりました。要は、セーリングを味わって頂きたい。ただ、それだけです。

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