第六十九話 評価

ヨットは奥が深いとか言われます。それはどういう意味なのでしょうか?調整の仕方、乗り方によっていろいろ微妙に変化する?考えようによっては、単純に見える物も本当は奥が深いのかもしれません。すると、評価する側が何を考えるかによるような?

セーリングして、今日は良かった、悪かったと評価するのは、単純で浅いのかもしれません。奥が深いのは物では無く、評価する側が奥の深さを持っているかどうかになるかもしれません。速いか遅いか、単純にイエスかノーか、プラスかマイナスか、というのは単純すぎるのかもしれません。楽しかったか楽しくなかったかも同じでしょう。

そのものを遊ぶというのは、良いか悪いかの単純な評価では無く、全てを味わう方が良い。となると、評価をしない方が良いのではないか?そのままを味わう。良い悪いでは無く、そのまま。すると、良いと悪いの間にもいろいろある事が解る。味わうというのはそういう事で、評価しないで遊ぶ事かもしれません。全ては考え方、見方によって変化します。特に、悪い見方を持つと、考え方が偏ってしまう。

例えば、スプレーを浴びてびしょ濡れになる。悪いと評価すると、それじゃあドジャーを設置しようと思う。それも対策のひとつです。或いは、そういう時は乗らないのも対策のひとつ。でも、スプレー浴びても良いじゃないかと思えば、何もする必要は無い。ドジャーをつけるなという意味では、もちろんありません。何かあって、その対策をする。それが普通ですが、そのままを味わうという方法もある。遊びは味わいですから、その味わいを良いと悪いに分ける事もできますが、分ければそのれに対応しなければなりませんが、分けなければ、そのままを味わうという事もできる。

いちいち良いと悪いに分離しますと、それが濃縮され、良いはもっととなりますし、悪いは何とかして防がなければならなくなる。しかし、そこにもうひとつ、評価をしないで、そのままを味わってみるという方法もある。そうすると良い悪いは無くなり、単純にスプレーを浴びるという事実があるだけで、良い悪いは無いけれども、面白いと捉える事ができるかもしれません。面白いとは良い悪いの両方を超えたもの、遊びとは良い悪いでは無く面白いもの、面白さは単純な評価では表せない、奥の深さがあります。

ヨットが奥が深いというのは、遊びが奥が深いからでしょう。ヨットを遊びと捉えるから奥が深い。そのヨットを業務として使うとすると、ちっとも奥は深くない。面白さはヨットそのものでは無く、自分の遊び心に比例するのかもしれません。その面白さは、評価をしないで、そのままを味わう事にあるような気がします。でも、ついつい評価してしまいます。評価する事によって理解できると思うからです。しかし、評価する度に、自分の面白度を下げている事になるのかもしれません。

できるだけ評価をせずに、味わう事に専念するとどうなるか?そんな事ができるのか?解りませんが、夢中になると、その際は評価はしていない。それが緩んだ時にはじめて思う。でも、辛い事であっても、思う時はその辛さが終わってから、するとその辛さも、乗り越えてきた満足感やスリルの味わいとして面白さの一部になるかもしれません。最中に評価さえしていなければですが。

評価するのは、その理論的評価によって、言葉によって具体的に理解できる。例え口に出さなくても、頭の中で言葉にして理解を確認する。言葉にしないと、理解した気にならない。だから、ただ味わうというのはとても難しい事かもしれませんね。でも、もしそれができると、究極の遊びになるのかもしれません。そこで考えだされたのが俳句かもしれません。5,7,5に限定される最も少ない言葉で言い表す。言葉が少ないので、その分味わいが残るのかもしれません。さすが、日本人。
細かい説明をせずに、イメージを残す。言葉が少ないからこそ、味わいが残るのかもしれません。

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