第三十八話 達人

人間は考える葦であるとパスカルは言いました。しかしながら、どうも違うような気がします。人間は感じる動物であると思います。頭脳を使う事によって、楽しさを感じる事もありますが、これとて、究極的には感じるが最後に来ます。結局は、感じる事が、どう感じるかが、締めくくりにあるわけで、これが無いならば、いくら頭脳プレーをしても何ら意味は無い事になります。ですから、やっぱり人間は感じる生き物ではないでしょうか?

という事は、何をするかと考える事も大切ですが、最後には、何を感じるかが重要ですから、何をするかと考えるように、何を感じようかと考える?なんだか良くわかりませんね。

要は、感じる事を重視する、考えるよりも重視する、どんなに高度な思考を巡らそうが、どんなに高尚な事を考えようが、それだけでは何の意味もないわけで、その結果、何を感じるかが重要です。
という事で、特に遊びにおいては、何を感じようか、と考えましょう?否、感じましょう?

感じる為には考えない。考えないで行動する?無謀な?でも、最後には、何を感じたかが全てではないでしょうか?

気持ちが良かったら良いじゃないですか。美しいと感じるだけでも良いじゃないですか。風が心地良いと感じたら良いじゃないですか。ちょっと速くなっただけでもゾクゾク感じたら良い。タックが前より少しでもスムースになったと感じたら良い。

これがもう少し進みますと、俗に言われる良いという事以外でも、何かを感じる事で良しとする余裕ができる。ドキッとする事も良いし、ヒヤリとする事も良い、緊張感も良い、となりますと、何でも面白いと感じられる。

そうなってきますと、セーリングは実に面白い。大袈裟に言えば、生きている実感のようなものがあります。桟橋に係留したままの完全な安定感から、セーリングのドキドキ感まで、自由自在に、何でも感じる事ができます。どうせ、ひとりで出ても楽しく無いと考えるなら、そうなりますが、何も考えないで出たら、何かを感じるかもしれません。何かをすれば、何かを感じる。どうせ、と考えれば、何も無い。

ですから、昔から、セーリングには自分なりのグッドフィーリングを求めるという事を推奨しています。兎に角、良い感じを求め、行動を起こす。そして、その行動に伴うありとあらゆる感覚を、究極的には面白がる事ができれば、セーリングの、ヨットの達人になれる。

腕の良いのが達人では無い。どれだけ楽しむ事ができるか?どのようにしようが、たくさん遊ぶ事が出来れば、遊びの達人ですし、ヨットの達人であります。この達人になった方が面白い。いくら腕が良くても、楽しめないなら達人ではありませんね。そういう意味では、誰もが達人になれる。達人になって、思う存分楽しむ事ができる。究極的にはこれだろうと思います。

その為には、本当はヨットなんてものは何でも良いのかもしれません。速かろうが、遅かろうが、性能が良かろうが、悪かろうが、何でも良いのかもしれません。弘法、筆を選ばずとか言いますし。
でも、私、未熟ですので、こだわってしまいます。こういうのが良い、ああいうのが良い。もっと良い感じを!と思ってしまいます。まあ、それでも良いか。本当に良い感じに出会った時は、やっぱり気持ちが良いですから。

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