第三十一話 自分の意思

前話で面白さについて書きましたが、もうひとつ大事な事があります。面白さを味わうに最も大事な事かもしれません。それは、セーリングに自分の意思を持つ事ではないかと思います。セーリングにはいろんな考え方があり、いろんな方法もあります。そこで、どういう目的で、どういう操作をしてという自分の意思を持つ事によって、その面白さが何倍にもなるという事です。

決まり事のように走っていますと、そこに意思はあまり無く、面白さには限界も出てくる。しかし、そこに自分の意思、目的、求めるもの、何故そうしたいかという意思が見えてきますと、その操作方法も考えます。そして実行しながら、その結果を感じ取れます。うまくいったり、いかなかったり、自分の思い通りになるか、ならないか、さらに、自分の考え方で良かったのか?そういう誰でも無い、自分のセーリングと言う物が創られる事に、面白さが出てくる。

考え方がたくさんあって、走らせ方もたくさんある。多くのバリエーションがあるわけですから、自分の意思がどういう風に判断するか、そこを楽しむ事ができ、その操作方法も楽しむ事ができる。セーリングはこうでなければならないというより、いかに自分の意思を持ち、それを実行し、結果を見るというプロセスの中にこそ、面白さがある。

例えば、野球です。ただ、力一杯投げて、力一杯打ち返すという野球もありますが、それがどんどん進化していきますと、コースを投げ分けたり、緩急をつけたり、球種も違ってきます。バッターにしても、次の球を予想したり、打ち分けたり、わざとファールにしたり、突然バントだったり、これらはみんな意思の表れで、意思があるからこそゲームになる。ただ、投げて、打って、走ってという事をしているわけでは無いわけで、意思があるからこそ、見ている方も、あそこはカーブじゃね〜だろうとか、いろいろ言えるわけで、そこにも、観客にも意思があるわけです。

つまりは、野球というゲームを通して、実は、本当のところ、自分の意思とかを楽しんでいるのかもしれません。ヨットにしても、ただ動かすだけから、自分の意思が働く事によって、ゲーム化し、そこを楽しんでいる。意思無きところにはゲーム性が失われ、面白さが無くなる。

こうしよう、ああしようと思って、いろいろ工夫して、それがゲーム性を創り、それが面白さに繋がる。そういう事ではないかと思います。セーリングに意思が無くなりますと、ただ動いているだけになります。最初は気分も良いかもしれませんが、そのうち飽きてくる。そうしますと、会話を楽しむとか、食事とか、セーリング以外の何かが楽しく無いといけません。でも、仮にそうれが今楽しかったとしても、次はどうか?しょっちゅうやってどうか?あの娘を何とか誘って、セーリングに行きたいという意思がもしあるとしたら、そこに自分の意思があるわけで、それがうまくいくかどうかを楽しめる事になります。セーリング中も会話に意思があって、そこを楽しめるでしょう。

面白さとは、自分の意思のおきどころにあるのではないかと思います。そして、そこから結果を得る。その時の感覚も得ます。それらをトータルで遊ぶ。いくらセーリング技術があっても、面白いとは限らない。面白いか面白く無いか、それが最も重要なテーマです。それには、自分の意思、緊張と緩和、操作手段の選択(ここにも意思がある)、そして、その結果を見て、フィーリングを感じて、そしてまた次に進む。セーリングがゲームになった時、最も面白くなる。

そして、その意思は慣れるに従って、徐々に、もっと上を目指すようになっていく。意思があれば、自然にそうなる。ですから、永遠に楽しむ事ができるのではないでしょうか?逆に、意思が無くなれば、ゲーム性は薄れます。しかし、ひょっとしたら、このレベルを超えた時、意思は無くても、感覚的セーリングとして、さらに違う意味での面白さが湧いてくるのではないか、と想像しますが?でも、そこに至るには、順番を踏む必要があるような気がします。まあ、セーリングは永遠ですね。

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