第八話 刺激

我々はいつも刺激を求めています。美しいものを見たり、好きな音楽を聞いたり、夕食の匂いを嗅いだり、味わったり、手触りの感触を楽しんだりします。それらの刺激が全く無くなりますと、退屈になってしまいます。ですから、いつも、刺激を求めて、いろんな事をします。

しかし、その刺激も心地よい刺激ばかりでは無く、気持ち悪い刺激もあります。また、心地よい刺激であっても、それが長く続きますと、これまた退屈感を覚えてきます。実にやっかいな生き物ですね。しかし、だからこそ、刺激はバラエティーに富んでいる事が重要になりますね。良い事ばかりでも飽きてきますので、そこにそうで無い刺激もある事によって、様々な感触を得る事ができます。
我々が生きているという事は、良いも悪いも、この刺激がある事かもしれません。これがある一定の刺激のみになったなら、ぞっとしますね。

もし、5〜6mの風がいつも同じ方向から吹いてくる。波も無い。毎日がそういう状態だったとしたら、どうでしょうか?暑くも無く、寒くも無く、毎日快適な日々だとしたら。確かに、心地よいセールフィーリングを得られるかもしれません。でも、来る日も来る日も同じなら、セーリングする前から、だいたい想像できてしまいます。面白いのは、想像通りが50%、もう半分は想像外の事が起こる。この程度が最も面白さを感じると言われます。想像通りなら飽きるし、想像外の事ばかりではついていけない。そういう意味では、自然はちゃんとうまい事動いています。

いろいろ変化する自然ですから、お陰さまで、いろんな経験、感触を得る事ができる。寒い時もあれば、飛沫を浴びる事もあります。しかし、だからこそ、面白さもあるわけで、我々は本当は良い事ばかりを歓迎しますが、トータルとして、全てを受け入れる必要があるのかもしれません。本当の面白さは、全てを受け入れるところにあるのかもしれません。

もし、舌が変になって、ある一定の味しか解らなくなったとしたらどうでしょうか?食事の楽しさなんか味わえなくなりますね。その味がうまいのか、まずいのかさえ解らなくなるでしょう。その味がどうかと解る為には、甘いも辛いも、すっぱいも、いろんな味を感じなければならない。そういうものかと思います。

辛い目にあう事は本当に嫌なもんですが、でも、それが無いと、本当に面白いも解らなくなってしまう。我々が刺激を求める以上、それは仕方ない。しかし、良く良く考えてみますと、刺激そのものに良いも悪いも無いわけで、勝手にそれに名前をつけているだけという事になります。良かろうが悪かろうが、刺激には違いない。その刺激に、嫌だと思う事が多々ありますが、できれば、今起こっている事実に、良いとか悪いとか名前をつけずに、どう対応したら良いのかと考えるだけにできたら、刺激を味わいとして楽しむ事ができるのかな?

生きるとは刺激を求める事。刺激を求めれば、いろんな刺激が出てきて、自分の特定の刺激だけを得る事ができたとしても、それさえも退屈になってしまう。ならば、全部受け入れるという姿勢を持つ事ができれば、もっと面白いという事になるのではないか?でも、果たしてそれが可能か?

長い目で見ますと、ある刺激、それが嫌な刺激であっても、後々にそれが役に立つ事があります。良い悪いの判断は本当はそうそう簡単には下せないものかもしれません。そう理解して、何が幸いするかは解らないと考える事にしよう。そうしたら、もう少し面白さが増えてくるような。

刺激を求めるに終わりは無い。あそこまで行ったら、もっと向こうまで行きたくなります。5ノット出たら、6ノット、7ノットを求めます。求め無くなれば、退屈になる。求めてもキリは無い。我々はそういう存在です。仕方がありません。という事は、いつもプチチャレンジ精神を持つ事によって、我々はいつも刺激されます。これが無くなったら、退屈で仕方が無くなる。退屈ほど辛いものは無いのかもしれません。刺激が無くなるのですから。

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