第二十五話 ながら族

我々は何かをしながら、また違う何かをするという習性があるようです。昔ですが、ながら族なんていう言葉が流行りました。覚えておられる方も多いと思います。何故、そんな言葉が流行ったのか?音楽を聴きながら勉強する。テレビを見ながら、食事をする。いつも何かをしながらです。今日では、それが当たり前ですから、誰もながら族なんて言葉を使う人は居ません。

最近特に思う事は、何かをしながら、違う何かを考えているという事です。テレビを見ながら、食事しながら、会話も時々しながら、そのうえ、何か違う事も考えていたりします。2つどころか、3つ、4つと、ながら族です。

ところが、人間は同時にふたつの事をするわけにはいきません。同時にやっているようで、実は、とぎれとぎれに、いくつかの事を、瞬間瞬間に切り替えながらやってます。今テレビ見ていて、食事をします。確かに食事はしていますが、味わうわけでは無い。意識はテレビに行ってます。そして、誰かに話かけられると、意識が会話へと向かうなら、その瞬間はテレビから離れ、会話に向かう。或いは、意識はテレビのままで、生返事を返す。或いは、テレビを見ながら、食事しながら、生返事を返しながら、時にまた違う事を考える事もあります。そんな事は普通であります。普通ですから、そんな行為に誰も名前をつけたりはしません。

考えてみまたしたら、一体何をしているんでしょうか?テレビを見ているのか、食事しているのか、会話、それとも思考?何をしているのか解らない。人は動物と違って頭脳が発達しているのですから、こんな事ができるのでしょうか?嫌々、実は同時にはしていない。細切れにいろんな事をしているに過ぎない。一度にはひとつです。

これが普通なのですが、では、食事がどうだったのか?その中に何が料理されていたのか、翌朝になったらすっかり忘れていたりします。何も呆けたわけではありません。会話も忘れていたりします。これはどうした事でしょうか?確かにしたのですが、記憶が薄い。結局、食べたのだけれど、味わっていない。会話したのだけれど、心ここにあらず。そういう事かもしれません。それは、私だけでしょうか?

楽しむというのは、本当は行為と意識が一致していなければならないのかもしれません。食事の時には会話ぐらいします。全員が黙って黙々と食べている光景は、ぞっとします。しかし、食べている瞬間は良く味わう。会話に入ったら良く聞く。そういう事が、本当は必要なのかもしれません。ああ〜ビールが飲みたいな〜と、人が話している時に考えてはいけない。そう違う事考える事が、している事を本当には楽しめないのかもしれません。決して嫌では無いが、記憶に薄い。

実は、そういう私も同じながら族です。だから、思ったわけです。いつも、何かをしながら、違う何かを考えていたりします。特に、何か悩み事でもあろうものなら、一時的ですが、強烈に考えます。風呂入って、洗いながらも考えて、それで、今シャンプーしたのかな?それともリンスしたのかな?なんて事もあります。で、結局、何か名案でも浮かぶならまだしも、全くと言って良いほど、何の役にもたっていないのです。

役に立つどころか、無駄である事に気付きます。しかも、今やっている行為にさえ、集中していないのですから、遊んでいる時でさえ、それを楽しんでいるとは言えません。やはり、できる事はひとつ。同時期にふたつはできない。

それで、事に集中しようと思いますが、それがなかなか簡単ではありません。ついつい考えてしまいます。癖になっているんでしょうか?自分で自分の思考を制御できないわけです。

ところがです。セーリングになりますと、いとも簡単にセーリングに集中できる事が解りました。マリーナを出た途端に、少なくとも、陸上の事は忘れています。だからこそセーリングを楽しむ事ができる。という事は、何らかの行為をする時、他の事を考えまいとするより、行為そのものに集中する事が重要なんだと思っています。それがセーリングでは簡単にできる。遊ぶにしても、仕事するにしても、何をするにしても、集中する事が大事で、そうでなければ、楽しんでいるようで、楽しんでい無い。仕事しているようで、何か抜けていたり。

集中しますと、感覚は鋭敏になりますから、微細な事まで気付く事ができます。ここが大事なところかと思います。ゆったりと遊びたいと思う事もありますが、そのゆったり感に集中して、ゆったり感以外の事を考えなければ良いのですが、ついつい考えてしまいます。それで、我々は集中力をつけて、集中して遊ぶという事が、本当に遊ぶという事ではないかと思います。

セーリングはいとも簡単に集中させてくれる。これが私の実感です。さらに、意識してそこに集中した方がもっと楽しむ事ができるのだろうと思います。

考えてみますと、セーリングに頭も使いますが、どちらかと言いますと、感覚的要素が強く、セールトリミングするにしても、風がこうだから、セールをこうしようと考えるより、感覚的にもう少し開こうとか、閉じようとか、そういう風にしている割合が結構多いのではないでしょうか?

そこに集中し易いという要素が少しあるように思います。せめて考えるにしても、頭脳がセーリングの事なら良いのですが、もし、セーリング以外の事が入ってきますと、もうセーリングしているようで、セーリングしていない事になります。頭が何かを考える時、他の身体器官は鈍感になってしまう。
鈍感になりましたら、せっかくのセーリングが半分も感じれなくなります。

ですから、考える必要がある時は考えて、それが終わったら、感覚に集中する。そういう意識をもってセーリングにあたった方が良いのではなかろうかと思います。

のんびりしたいんだ、何も遊びにまで張り詰めてなんか嫌だと思われる方もおられると思いますが、でも、本当にそうでしょうか?のんびりしながら、何も考えないで、のんびりを楽しめれば良いのですが、のんびりしますと逆にいろんな事を考えてしまいます。それでは、のんびりをちっとも楽しんではいません。

ここはやはり、集中して、そこを楽しんで、そして次に集中を解いた時、そこに本当ののんびりがあるのではないでしょうか?

という事で、ながら族はやめて、今している事に集中する事が、最も楽しむ秘訣ではなかろうか?これがいまのところの結論です。どれだけ楽しめるかは、どれだけ集中できるかにかかっているのだろうと思います。

さて、次に、本当に楽しむという事について考えます。集中したうえでの事です。今は私にとって考える時間ですから、考えるで良いわけです。

次へ       目次へ