第六十五話 遊びの定義

例えば、家を建てるとします。本来なら、屋根があって、壁があって、窓とドアがあれば家としての機能は満たします。最近なら耐震構造とかになるんでしょうか。しかし、それだけで満足できないのが人間です。

新しい服を買うとします。人間の体を包み、寒さをしのげるのなら、それで良いはずです。でも、そうはいかないのが人間です。食事も同様。充分な栄養を取れれば良いはずですが、それも、それだけでは満足できません。

我々は、見た目のデザイン、色を気にします。料理の香りを、味を、気にします。音楽でも、良いメロディーやハーモニー、音質も気になります。素材の風合いとか、肌触りとか、そういう事を気にします。もはや、屋根さえあれば良い、寒ささえしのげれば良い、栄養さえ取れれば良い、そういうものではありません。本来求められる基本的機能は当たり前であります。それ以上の感性を求めているわけです。その感性の部分を、遊びと定義します。本来なら、どうでも良い事です。

色がどんなであっても、本来の機能には関係ありません。見た目のデザインがどんなであっても、本来の機能には関係無い。本来の機能に関係する部分は遊びとして捉えませんが、無関係な部分は遊びです。どっちが良いかなんて事を、感性で決める。好き嫌いで決める。似合うかどうかで決める。匂いが良い。うまそうに見える。美しい。肌触りが良い。見た目のバランスが良い。乗り心地が良い。感性が求める事はたくさんあります。それらはみんな遊びだと思います。

我々は仕事をしますが、サービスをする側は仕事です。ある製品を造って販売します。製品は本来の機能を持つのは当然要求される最低限の事になります。しかし、そこにプラスアルファを加えます。より高い性能、色、デザイン、等々、これらは受け取る側の感性を刺激します。それは受け取る側は遊びです。本来は、無くても困らないものです。ならば、それらは遊びと定義しても良いんじゃないでしょうか。

りんごひとつとっても、味、色合い、形が要求される。それらはみんな遊びの世界だと思います。かくも、我々にとって、遊びは重要な位置を占めるようになりました。我々の生活は、もはや遊び無しでは考えられないのです。あらゆる物に、あらゆる行動に遊びが一緒についていきます。それらの遊びは、我々の感性を刺激し、好きと嫌い、どっちでも無いに分けられる。分けているのは、遊び心です。本来はどうでも良い事なのです。でも、どうでも良く無くなっています。

生きるか死ぬかの次元であれば、悠長な事は言ってられませんが、そうでは無く、いかに生きるか、質を向上させるか、それによって満足感を得られるかが問題です。満足感は感性で得るもの。つまり、我々は常に遊びを求めている。ありとあらゆる所に、ありとあらゆる場面に。物を求めているのでは無く、それを通じて、良い感じを得たい。遊びたいと思います。車を買ったら、走る。走れない車は遊び以前の問題になります。走れるのは当然ですが、それ以上の感性に訴えかけるものを求めます。

前置きが長くなりましたが、ここでヨットの登場です。ヨットを考えるにおいて、本来の機能と感性の部分を考えます。ヨットには本来、何かの仕事をしようというものでは無く、全部遊びではあるのですが、そのヨットで、どこかに旅をしようとなりますと、それがそのヨットの仕事になります。セーリングしようと思ったら、それがヨットの仕事になります。どんなヨットであれ、仕事をこなす事はできます。しかし、重要な事は、それがどんな感じを与えてくれるか?感性はどんな刺激を得るかにかかっています。つまり、各ヨット間の差は、そのヨットから受け取る事ができる安心感、豪華さ、安定感、スピード感、いろんな感じの差という事になり、それが人間にとって重要だという事になります。という事は、遊びが重要なのです。

どんなヨットでもセーリングはできる。どんなヨットでもクルージングはできる。しかし、その他の感じという、我々が最も重視している遊びにおいては、それぞれが違ってくる。そこが重要なのです。
日常生活でも遊びがたくさんある中で(上記のような定義をするなら)、ヨットはその遊びがもっとつまっています。もっと感覚的なのではないでしょうか?

性能、形、色、デザイン、大きさ、全ては感性を土台にして見るべきものかと思います。セーリングして、より速く、効率良くと思っても、それがどんな感覚をもたらすかの方が重要なのです。いくら速くても、気持ち良さ、面白さ(いろんなバリエーションがありますが)が無ければつまらないのです。

我々が生きるというのは、どんな遊びをしようかと望む事になります。その為に仕事をして、毎日の生活を営む。生活が出来なければ、感性のどうのこうの言ってはおれませんが、そこそこ出来るようになりますと、即座に遊び心が出てくる。いかに遊びを充実させるかになってきます。そして選択の迷いは、この遊びにあります。

機能がちゃんとしていれば、それだけなら迷う事は無い。安ければ、そっちの方が良い。でも、そこに遊びがあるからこそ、選択に迷いが出てきます。つまり、我々はいつも感性遊びをしているという事になります。では、遊びを遊びとして意識してはどうでしょうか?本当ならどっちでも良いんだが、自分の遊びの感性はどっちを選ぶか?そう考えてはどうでしょうか?選択の主導権は頭脳では無く、感性にあると意識します。その感性のサポートとして頭脳があると考えます。するとどうなるでしょうか?

頭脳はデータを見ます。そこから性能を推察します。キャビンの広さを考えたり、コクピットの広さを考えたり、造りの良さを見たり、艤装を見て、配置を見ます。基本的な機能や性能は必要ですが、しかし、それらは決定の直接的要因にはなりません。それらを総合して、感性が決定を下す。どんな感じがするのかな?感性ですから、客観的にはなりません。あくまで主観です。頭脳で考えながら、どんな感じがするのかをも同時に意識してみる事が、自分の感性に合う。自分の遊び心に合う選択ができるのではないか。

頭脳は常識を持って、何人座れるか、何が付いているか、他人はどう思うか、とか考えますが、そう考えている瞬間に、同時に自分の中の気持ちはどうか、感性はどう感じているか、そういう事を意識しておきますと、選択がし易くなる。自分の正解がより解るのではないかと思います。頭脳だけで選択しますと、目的は達成できるかもしれませんが、あそこに行けるかもしれませんが、気分はまた違っているかもしれません。それで遊び心を満足させられない。遊んでは居無い事になります。そうすれば乗れば乗る程、ストレスが溜まりかねない。

しかし、感性は我侭なもので、自分の都合の良い事しか考えません。ヨットを出せば、良い時ばかりではありませんので、それも受け入れなければならない。つまり、ヨットを遊ぶという事は、より自分の感性を満たしながらも、同時に受け入れる懐の深さも必要で、それはヨットで無くても、全てにおいてそうでしょう。つまり、遊ぶという事は自分の感性を求めつつも、懐は深く、それがより楽しむ方法かと思います。感性を意識する事で、より冷静になれる。今、遊んでいるんだと意識する事で、より正しい選択ができる。まあ、本当は正しいも無いわけですが。少なくとも、自分の正解には近づけるのではないでしょうか?頭脳で分析して、人の意見は参考にしつつも、決定権は感性にあるかな?

デイセーラーが良いわけじゃない。クルージング艇が良いわけじゃない。レーサーが良いわけじゃない。自分の感性が、遊びがどこにあるかでしょうね。我々はいつも遊んでいます。遊んだ方が良いのです。どの服着て行こうかなと、遊んだ方が良い。それが楽しさになるかどうかは自分次第、懐の深さ次第です。遊びだからこそ、失敗しても、しまったと思うかもしれませんが、やり直せば良いと思うだけです。気楽に、気楽に遊びましょう。失敗しても、本来の機能としては成功していますから。我々の殆どの行為は遊びなのかもしれません。ですから、ヨットをことさら遊びと意識する必要も無く、いろんな遊びの一部なのです。どんな遊びをするかは、どんな人生を過ごすかという事かもしれません。という事は、人生は遊び、遊びはゲームという理屈になりますね。ゲームオーバーになる迄は、おおいに遊ぼうと思った方が良いかもしれません。できるだけ気持ち良く過ごせるように。

遊びだからといって、いい加減ではいけません。遊びこそが今や重要な時代です。生きるだけならたいした事は無い。でも、いかに生きるかが難しい。それはいかに遊ぶかという事になります。
今日の昼飯は、何にしようかから、重大な決定まで、どんなゲームをするかです。

頭で考えると、快走セーリングもしたい。広いキャビンで宴会も楽しみたい。その同じヨットで旅もしたいし、遥か彼方への外洋にも行きたい。何でもしたい欲張りになります。しかし、それは無理。できない事はありませんが、デイセーラーは快走セーリングを味合わせてくれますが、外洋向きでは無い。本格外洋艇でデイセーリングができなくも無いですが、セーリング自体の質は違う。どんなヨットを何に使うかによって、期待する感覚と受け取る感覚が違うわけです。問題は感覚です。

今味わいたい遊びは何か?遊びを将来にとっておいて、今は我慢する事を味わいたいのか?或いは、将来は将来考えるとして、今は何を味わいたいのか?感性は解っているのでしょうが、頭脳がそれを抑える。諸事情の条件で抑えても良いのですが、それを解ったうえで抑えているという事に気付いている事が必要かもしれません。つまり、我々は何をしているのか理解している事が必要かもしれません。どんなゲームをしているのか。そうしたらストレスも減じられるのではないか?

デイセーリングもしたい、クルージングもしたい、宴会もしたい、遊びですから頭脳では決められない。どれが上でも下でも無いのですから。ならば、感性で、遊び心で、どれに最も魅力を感じるかを感じてみる。我々が生きるというのは、殆どフィーリングなのですから。好きな色を決めるのと本質的には変らないのですから。そういう意味では、フィーリングというのはとっても大事な事では無いでしょうか?

セーリングというのはフィーリングを大事にする。普段からフィーリングを意識するのは、より楽しむ為には良い方法ではないかな〜という気がします。頭脳万能の時代ですが、本当は殆どの部分で遊んでいるのかもしれません。ですから、遊びは我々にとって、とっても重要なのではないかと思う次第です。何だかんだ言っても、やっぱりフィーリングだと思います。

他人から見れば、日本一周したり、世界一周したり、レースでトップとったり、すごい事です。しかし、本人にしてみれば、やはりどんなフィーリングだったのかは事実よりも、もっと重要なのではないかと思います。称賛も嬉しいには違い無いですけど。という事で、遊びの定義は感覚、フィーリング、安心感、スリル、達成感、恐怖感、喜び、悲しみ、あらゆる感覚に関する事が遊びなんだろうと思います。どんな感覚を得られるかという遊び、ゲームをプレーする。真剣にゲームする。お気楽にする。どうするか?

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