第七十四話 不便を遊ぶ

この便利な世の中で、ヨットで遊ぶというのは、不便を遊んでいる事。不便だからこそ、そこに遊びがあるとも言えると思います。移動手段なら、速い方が良いし、楽な方が良い。ですから、車も電車も飛行機も、皆、その方向に向かって発展していきます。

でも、気が付いたら、速く着くから楽になったかと思うと、逆にもっと忙しくなりました。1泊して帰ったものが、日帰りで、次の日は別の仕事をこなすようになりました。電車の時間がちょっと遅れただけで、イライラするようになりました。それは社会が、造られた社会だからです。

その苦痛を癒すのが自然の中に入る事かもしれません。自然ははなっから、こちらの都合では動きません。造られた社会では無い。我々人間の存在以前からそこにあった。自然は我々とは関係なく、自然は自然の都合で動きます。

思うようにならないと解って入る自然は、我々にとって不便です。不便だから、便利にしようとしたのが社会です。そこにイラつきがあるので、もう一度自然に入る。それは不便を遊ぶ行為です。

乗り物と見たら、不便極まりない。でも、遊びの道具だとみるからヨット遊びができます。その視点を再びいつものように見ると、便利を目指し、便利を目指したら、徐々に我々の社会と同じになって行く。再び、ストレスを感じていくようになると思います。

だから、ヨットは不便のままが良い。便利になったら、ちっとも面白く無くなります。

とは言っても、昔じゃ無いんですから、とっても不便になったら、とてもでは無いが、遊ぶ気にもなれなくなります。やはり程度問題がありますね。ですから、ファーリングを採用し、パワーアシストを使う。でも、ヨット遊びの本質はやっぱり不便をどれだけ許容できるかかもしれません?

そこで結論は、どれだけ不便を不便のままに出来るか? それは努力してそうするのでは無く、自然にこれは不要と思えるかで、面白さが決まるのかもしれません。また、物だけでは無く、風が無くなったら、誰もが退屈感を感じますが、でも、もし、まあ、そんな時もあると、自然に思えるなら、ストレスは無くなります。

我々は、ストレスを無くそうとしながら、新なストレスを生み出す事を繰り返しています。それが社会の発展のあり方で、これはどうしようも無い。そのストレスをためるばかりでは嫌なので、何かの遊びをして発散したくなります。問題はその遊びにも便利を持ち込んでしまうから、またストレスを生み出す事になります。

便利を拒否するのでは無く、ちょっとした不便なら、そのまま受け入れてしまおうと思えるかどうか?ちょっとした不便なら、ちょっとした工夫が要求されます。それを遊べるか?それがヨット遊びの本質かもしれません。どこまで許容できるかが、どこまでストレスフリーで遊べるかになるのかもしれません。

昔ですが、ある人が、コンピューターと油圧を駆使して、ボタンひとつで、全ての操作ができるようにした。実際に商品化されました。ボタンを押せば、コンピューターがその時の風向や風速を計算し、油圧シリンダーが調整されて、その時の最適なセールカーブを造るというものです。これは便利極まりありません。オートパイロットをONにして、ボタンひとつで、全てやってくれる。自分は座っているだけです。でも、これは全く売れなかった。

誰もが、そこまでは要求していない。それが面白く無い事は解っている。では、どこまでなら良いのか?それは各人次第ですが。

便利と遊びとを考えて、どこまで許容できるか?どこまで不便を遊べるか?不便を便利にするから、新たな不便を生み出すなら、不便を不便のままで受け入れられるなら、その不便はストレスフフリーになる?

便利をひとつ採用したら、その代わりに、面白さをひとつ見出す。便利になったから、その分、楽になった分、こういう事ができるという、何か面白さを見つけるのが良いかな?今の世の中、便利は拒否できません。でも、どこまでやるか? 不便すぎるのも、便利過ぎもストレスを生み出す。
何事もバランスですね。採用した方が良い便利と採用しない方が良い便利がある。
不便をどこまで許容できるかでしょうね。

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