第五十五話 浸るセーリング

特に快走というスピードを得るわけでは無くとも、セーリングをしていますと、軽い緊張感を持ち、その中で、舵の感触を味わい、セールを観察し、その走りを感じる時、その緊張感は、ある種の心地良さをもたらしてくれます。

その緊張感こそが、セーリングの面白さではないかと思います。その面白さは、ただ、よりスピードを求める、快走を求めるというだけがセーリングの面白さでは無いという事、様々な状況での様々な味わいこそが、セーリングの味わいというものという事を感じます。

何が良くて、何が悪いというより、様々な場面、味わいがあるからこそ、それが全てを含んでいる事。それをそのまま味わえるという事こそが、セーリングなんだろうと思います。そして、あれこれ考えずに、セーリングに浸る時、最も心地良さを感じる。特別な何かがあったからでは無く、快走したからでは無く、スピードが出たからでは無く、ただ、そこに浸れる時、それが最高なのではないかと思います。

えてして、こういう時というのは、ああしよう、こうしようという考えも無く、ただ無心に舵取りをしている時かもしれません。そうやって、緊張感を感じた時、充実感も感じます。

我々は、常に、ある場面を求めていきます。楽しい場面、快走の場面、しかし、求める時では無く、何も求めず、そこに浸れる時こそが、最高の充実感を得られるのかもしれません。しかし、その為には、常日頃、最高の場面を求める必要もあるように思います。矛盾していますが、求めつつ、あれこれと操作をして、何度もセーリングして、そして求めなくなった時にこそ、最高のフィーリングを得られるのではないかと思います。

ですから、たいした風が吹いていない時でも、十分にグッドフィーリングを得られる事があると思います。いろんな事があって、いろんな事して、でも、全てはこの為にある。それは快走の時とはまた違ったフィーリングです。楽しいわけでは無く、面白いわけでも無く、何も無い。ただ浸る。浸れる時
つまりは、自分次第ですね。

その自分次第の心を自分で自由に制御できないという不自由さを持っています。外部環境の条件によって、楽しくなったり、退屈だったり、面白かったりと、いろいろ感じます。自分の制御ではありません。外部環境に対する条件反射みたいなものです。実は、本当は、そういう外部環境からもたらされるフィーリングよりも、外部環境の影響によるものでは無い、自分の内側から自然に出てきたフィーリングこそが、最も充実感をもたらすのかもしれません。そして、それは自由にはできない。だからこそ、貴重でもあります。

これは単純に、そこに浸れるかどうかではないかと思います。それこそが、セーリングの味わいの中で、最高の充実感をもたらすのではないか?それは楽しさや面白さを超えるものではないかと思います。否、そういう気がしています。つまり、自分自身に準備ができました、という時。技術だけでも無く、ヨットの性能だけでも無く、自分自身の準備次第。多分、どこまで集中できるかという問題ではないかと、今のところ思っています。

だから、その為にも、常日頃、どう過ごすかが重要になります。普段において、いろんな状況において、あれこれの試行錯誤という行為が必要になると思います。そして、いつか、自分の準備が整った時、ただ浸るセーリングという味わいを得る事ができるのではないかと思います。これを味わうと何も無いけど充実感がある。究極のセーリングではないか?究極の遊びではないか?そんな感じがします。楽しさを求めますが、その先に、それを超えた何かがある。その時の状況に頼る事の無い、充実したセーリングがある。と思います。我々は矛盾した存在なんでしょうね。求めつつ、求めない。そんなアホな。

そういう意味では、技術を求めつつ、技術では無い。性能の高いヨットを求めつつ、性能では無い。究極的にはそういう事になるのかもしれません。でも、とりあえずは、求めない事には始まりませんね。やっぱり矛盾しています。

次へ        目次へ