第96話 創造的である事

創造的である事は人生を豊かにすると思う。だから、自分が創造的になれる場面を
多く持つ人は、より充実した人生をおくる事ができる。創造は受動的ではなれない
ので、能動的でなければならない。仕事が創造的なら、こんな幸福は無い。

テレビは大衆娯楽の筆頭であるが、テレビを見るという事はスイッチを入れるという
能動的態度以外は受動的であるので、何時間見ても充実感がわきだす事は無い。
音楽を鑑賞する事も、映画を見る事も受動的であり、その中に充実感を見出す事は
無い。感動する事はあっても、充実感とは違う。充実した感覚を得るにはプレーヤー
になる事である。音楽鑑賞から、演奏者になる。絵画を鑑賞する者から自分で絵を
描いてみる。野球観戦から草野球チームに入ってプレーをする。何事も自分がプレー
をすれば、工夫が生まれ、体を使い、頭を使い、自然に創造的になる。

旅行をしても、ただ連れていかれるだけでは創造的では無い。見た物から学び、本を
書いたら創造的だし、うまい物食って歩いても創造的では無いが、それを元に何かを
積極的に始めたら、それは創造的である。つまり、行動はふたつしか無く、受動的で
あるか能動的であるかだ。受動的でも、感動するし、ゆったりするし、何らかの幸福感
はある。しかし、もうひとつ物足りなさを感じる。それが能動的であるなら、自然と人は
創造的になる。創造には必ず困難を伴う。困難の無い創造はありえ得ない。その困難
を他人が見ると、大変だとなるが、本人は結構楽しんでいるものである。困難を目の前
にして、それをどう乗り越える事ができるかと創造的になる。

ヨットには本来能動的な物である。自分でコースを決め、どんな走りをするかを決める。
舵をとり、セールをトリミングしてよりスムースな走りを試みる。タックし、ジャイブし、スピ
ンを上げて走りを創造するのである。これはかなり積極的な行動であると言える。だから、
充実感がわいてくる。しかしながら、エンジンで走って、うまい物食いに行くのは創造的と
は言えない。だから、うまい物食ったという充実感はテレビを見て面白かったという事と
たいして変わらない。既にある物を見たり、聞いたり、食ったりする事は一見行動的で
能動的であるように見えるが、実は創造的では無い。無い物を創り出す。創造的とは
そういう事だろう。難しそうに思えるが、実は簡単なのです。単に積極的態度次第だと思う。

ゴルフをやる時、グリップを工夫する、スウィングを研究する、パットのタッチを研究する、そう
いう時、見えない物を創造している。無い物を創り出している。新しいグリップや自分に合った
スウィングを創造する。例え、人まねでも自分の肉体がそれに近づく、できるようになるという
事は自分にとって創造なのです。ヨットで、舵の取りまわしの仕方を工夫する。セールのトリ
ミングを創造する。スムースなタックを創造する。つまり、何かを積極的にしようと思えば、その
物に対して自分のレベルを上げよう、うまくなろうとする。それが創造です。それで、創造を繰り
返していくと、受動的に得た感動とは全く違う次元の感動が得られる。

心の持ち方ひとつで、誰でも創造的になれる。ヨットを創造的に乗ると、いろんな場面に対応
させられる。それら多くの経験から、まとめあげて、創造的な技術が自分の中に生まれる。これ
程充実した感覚が他にあるだろうか。これを実現するのは、セーリングする事です。能動的な
心を持ってセーリングする事です。すると、知らない間に創造的になって、いつのまにか創造
された技術が身について、充実したヨットライフが実現できる。受動的態度が悪いというわけで
はありません。受動と積極のバランスをうまくとってほしいと思います。

創造とは工夫することです。工夫するには、工夫を必要とするトラブルや不便、困難がある。つ
まり、何かを積極的にやると、それ相応の何かが発生し、工夫を強いられる。でも、それが創造
的になる事であり、それ無しに充実感はやってこない。セーリングは、その宝庫なのです。誰
もができる、自分のレベルでできる。レベルが上がっても困難は無くならない。つまり、永遠に
創造と充実感を繰り返し味わう事のできる最高の乗り方なのではないでしょうか。

そして、これを放棄した時。何か物足りなさを感じるのではないでしょうか。人は与えられた物や
場面だけでは満足できないのではないでしょうか。創造して始めて、充実感を感じられるのでな
いかと思います。是非、セーリングを創造していただきたいと思います。

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