第五話 センスを遊ぶ


      

 
欧米では昔ながらのヨットを愛でる人達が居る。彼らのヨットはそのパフォーマンスにおいては、現代のヨットには敵わないだろう。でも、彼らの遊びのセンスではそれが良いんだ。パフォーマンスを含めて、乗り心地やデザインや、そのヨットが醸し出す雰囲気、操作性にしたって、ちょっと面倒さもあるかもしれないが、でも、彼等にはそれも良い。遊びは理屈ではありませんから。それが解っているからこそ、欧米では多くのユニークなヨットがたくさん存在していける。考え方がもっと自由なんですね。これは歴史の違いかもしれない。

車はセンスの持ち合わせが無くても運転はできるし、実用を満たす事ができる。でも、センスのある人は、それを楽しむ事ができる。それはドライブしていて何か感じるものがあるからだろう。この違いは決定的だ。この点で言えば、ヨットは走らせる事はできても、実用性は無いので、センスある人しか楽しめないのかもしれない。

ヨットを選択した時点で、海とヨットに対する何らかのセンスはあるはずだ。それが何なのか?結局、遊びとは自分のセンスを楽しむ行為、センスの赴くままに楽しんで、発展させていくから面白さが獲得できる。センスに正解も間違いも無いから、それぞれの楽しみ方が生まれるのが当たり前で、それぞれを楽しんで、尚且つ、発展させていけるかどうかが鍵ではなかろうか?

セーリングには理論を学ぶ必要があるが、理論には正しいか間違いかがある。それは如何に効率良く走らせるかというテーマ設定があるからだ。でも、遊び、楽しさ、面白さには絶対の正解は無い。だから、各人が自分のセンスで遊ぶ事が正解となる。それは理論通りに操作する事さえ凌駕する事もある。理論は重要だが、必ずしも優先事項とは限らない。そう言えば、オーバーヒールさせてでもヒール好きが居た。理屈で言えば、オーバ―ヒールは横流れを誘う、でも、その感じが好きなんだそうだ。それで良いと思います。解ってやってるのですから。

セーリングであれ、旅であれ、レースであれ、自分のセンスを大事にして、そこを如何に楽しめるようにするかを考える。否、レースには勝つというテーマ設定があるから、理論優先かな?それは兎も角、自分の遊びに他人の意見は必要無い。センスが違うのですから。他人の経験から来る意見に従うから楽しめなくなる。自分のセンスに従いましょう。でも、参考程度には聴いて欲しいかな?それが自分のセンスに響くかどうか?これは他人にただ従うのとは違います。

センスは目的を選択し、それを楽しめるという才能だ。遊びとは自分のセンス、才能を楽しみ発展させていく事ではなかろうか?セーリングセンスをお持ちの方は、セーリングを楽しむのが一番、当たり前の話です。だから、どの様に操作して、どういう具合に走らせるかを創造します。それもセンスがあるからこそ楽しめる。デイセーラーにはそういうセンスが必要なのかもしれません。写真のヨット、これなんかセンス無くして楽しめない。しかも、セーリングだけのセンスでは無いですね。

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